絶対に心中したい晋作と、
絶対に心中したくない松陰
※二次創作/フィクションです
第一部
第一部
其の一出会い
拾われた夜、松陰は臓器を売られる覚悟をした。そういう噂は聞いていた。自分はまだ十一。どこまで抵抗できるだろうかと拳を握り締める。
けれど、差し出されたのは温かい粥。赤毛の三つ編みの男が口を開く。何かを企む顔ではなかった。ただ、ひどく疲れた顔をしていた。
「代わりに一つ頼みがある」
来た。粥の匙を持つ手が止まった。男の薄緑色の眼鏡の奥、瞳が揺れた気がした。
「いずれ、僕と心中してくれ」
「え。いやです」
即答してしまった。
其の二読み聞かせ
それから松陰は三つ編みの男―晋作と屋敷に住んでいる。黙って引き取られたのは、当然の拒絶をしたときにひどく落ち込む姿を見てしまったからだ。
時々、自分と同じような子供が屋敷を通る。数日いて、次に見たときにはいなくなっている。行き先は聞けなかった。世界は、まだすこし怖い。
晋作は毎日大量の薬を飲んでいて、夜中に胸を掻きむしることがある。松陰は寝る前に晋作に読み聞かせをする。色褪せた、古い本。松陰の唯一の持ち物。頁を開くと、すこし安心する。
布団に潜り込んだ晋作が松陰の袖を掴んでいる。
「どっちが子供か分かりませんね」
「せんせぇ……」
「先生じゃありません」
「今度こそ……」
「はいはい」
其の三はつか大根
屋敷の裏手が畑になった。若先生の発案である。
「土弄りをすると落ち着くんです」
なぜか部下たちが動員されている。仕立てのいいスーツの袖をまくった強面が無言ではつか大根を引き抜いていた。
「おう、若先生よ。これも抜いていいか?」「先生じゃありませんてば」「おう、大先生」「悪化してます」
呼び名の出処は晋作である。うっかり口が滑ったのを聞かれた。訂正する気にもなれず、晋作は窓から眺めている。
暇な組織にしたのは自分だ。荒事を減らし、危ない橋を全部落とした。おかげで抗争もなければ、大根を抜く人手だけは余っている。先代なら、この畑ごと売っただろう。
畑では松陰が笑っている。丸みの残る頬が土で汚れて、拭いもしない。神様と呼ばれていた頃の話はまだ聞けずにいた。
その晩の味噌汁に丸い根と葉がぷかりと浮いていた。
「はつか大根は葉も食べられるんですよ。捨てるところがありません」
「……そうか」
其の四心臓に悪い
二代目の背中に立つな。それが屋敷の暗黙のルールだった。松陰が小首を傾げても、誰も理由を教えてはくれない。
ある日、廊下の角を曲がったとき、晋作とぶつかりそうになった。晋作は顔面蒼白になり、胸に手を当てた。誰かに詫びるみたいに。
——驚かせてはいけないのか、と松陰は思う。ルールの意味は分からないままだったが、意味の重さだけは分かった。
同じ日の夕方、松陰は熱を出した。書斎の本を四十冊ほど読んだせいだ。止められなかった。海の写真も、遠い国の言葉も、人体の断面図も。読めば読むほど怖くなって、また次の本を開いた。
晋作は医者を三人呼んだ。
「……死にま、せんよ。よくある、こと、です」
「人間は本を読んだだけで高熱を出したりしない」
尖った口調だった。晋作の手は、また胸に当てられている。松陰は熱でぼんやりした頭で考えた。さっきよりも晋作の顔が白い。
僕はいま、心臓に悪いものになっているのか。
枕元の水差しは朝まで空にならなかった。
其の五狭いです
真夜中、晋作はのそのそとクローゼットの床に丸まった。掃除道具と段ボールの隙間。何もかもがガラクタだらけ。しばらくすると、ぎぃと床が軋む音がした。
「……またこんな所で」「出ていけ」「いやです」
松陰が毛布を引きずってきて、狭い隙間に身体をねじ込んだ。拾った夜は驚くほど軽かったのに。今はもう、押しても動かない。晋作は顔を歪めた。段ボールが崩れかけた。
「狭いです」「だから出ていけと」「いやです」
沈黙があった。自分の呼吸が少し落ち着いていくのが分かった。胸に穴が空いている気がする。だから穴に入る。理屈になっていないことは分かっている。分かっているが、こうしていると埋まる。
今夜はもう一つ、余計なものが詰まっている。
「先生」「先生じゃありません」「……知ってる」
其の六来年
晋作の誕生日だった。松陰が畑の野菜で夕食を作り、部下たちが不釣り合いに豪華なケーキを持ってきて、ろうそくを二十七本立てると、ケーキが燃え上がった。
「来年は工夫が必要ですね」
松陰が苦笑すれば、晋作の手が止まった。ほんの一瞬だった。松陰は何も言わず、無事な部分のケーキを切り分け、晋作に差し出した。
その日の夜。晋作は、ああ、いやだなとうんざりしながらベッドに寝転んだ。いつの間にか、甘い匂いをさせている松陰が自分の顔をのぞき込んでいた。
「……晋作は」
子供にしては重い声音だった。
「いくつまで生きるつもりですか」
「二十九だな」
「半端ですね」
「そうだな」
半端だ、と晋作も思う。あの人が死んだ歳というだけの、何の意味もない数字だ。意味などないのに越えられる気がしない。
「じゃあ、三十のお祝いは盛大にしましょう」
「……」
「ろうそくを三十本立てます」
晋作は答えなかった。答えられるはずもなかった。
其の七なんでもない日
朝の薬が小皿に乗ったままだった。
晋作は窓辺の椅子に座って庭を見ている。出会ったときと同じ、何も見ていない目だった。昼になっても皿はそのままで、部下たちが顔を見合わせて廊下を通り過ぎていく。誰も声をかけない。かけ方を知らないのだ。
松陰は自分の本を持ってきて、晋作の隣に座った。何も言わずに本を開く。文字の掠れ具合すら頭に入っている頁を。晋作は何も言わない。松陰も何も言わない。
「……なんで説得しない」
二時間ほど経って、晋作が言った。
「説得ですか。君が薬を飲むのは、君が決めることでしょう」
「そうかよ」
「僕は隣にいるだけです。畑の水やりと同じで、毎日やるものなので」
毎日やるものが欲しい、とは言わなかった。言ったところで晋作には分からないだろうし、松陰自身、それが何なのかまだうまく説明できない。
日が傾いて、庭の色が変わっていく。松陰は本を十回ほど読んだところであくびをした。晋作が舌打ちをして、立ち上がった。松陰が水差しから水を注いで黙って差し出す。五種類、全部飲み下した。
「飲んだぞ」
「見てました」
「明日も飲ませる気か」
「明後日もです」
松陰は本の続きを読んでいる。夕食まで、二人はそうしていた。
其の八辞書
書斎の絨毯の隅に白い錠剤がひとつ落ちていた。
昨日はなかった。松陰は覚えている。見たものは全部、そのまま頭の中に残ってしまう。今朝、晋作が薬を飲んでいた。小皿の上の五種類。そのうちの一つが、ここにある。
拾い上げると、錠剤には小さな記号が刻まれていた。松陰は薬の辞典を書棚から引き抜いて、記号の索引を辿る。指が止まる。
免疫抑制剤。
臓器移植を受けた者が拒絶反応を抑えるため生涯服用する薬。松陰の頭の中で頁がめくれた。見たものは全部残っている。廊下で顔面蒼白になり、胸に手を当てた晋作。真夜中、狭い隙間に身体を折り曲げていた姿。二十七本のろうそくの前で止まった手。二十九だな、と晋作は言った。
松陰はその一行を三度読んだ。一度見れば全て覚えてしまうのに、三度も。
——言っていない。晋作は何も言っていない。
松陰の指が辞典の頁を掴んだまま動かなくなった。窓の外は明るい。今日の水やりはまだだ。
晋作の心臓は、晋作のものではない。
第二部
其の九通報
松陰は走った。屋敷中を探して、部下を捕まえて、晋作の行き先を聞き、誰も教えてくれないので書斎に戻り、パソコンの前に座った。パスワードは知っている。一度、後ろを通ったときに、一瞬だけ。見たものは覚えてしまう。
免疫抑制剤。移植を受けた人間が飲むもの。飲まなければ拒絶反応を起こし、最悪の場合──そう書いてあった。何日でそうなるのかは書いていなかった。
大騒動のあと、晋作が帰ってきた。玄関で音がした瞬間、松陰は廊下を走って、その腹に頭からぶつかった。
「一度飲み忘れたくらいで死なん」
呆れ果てた声だった。松陰の膝から力が抜け、廊下に座り込んだまま立てなくなった。晋作が何か言ったが、聞こえなかった。
十一歳の頭は、そのとき初めて役に立たなかった。
其の十弟分
「情けねえツラだな」
森長可が味噌汁を置いた。具は松陰が育てた茄子。屋敷のキッチンの隅で向かい合って座った。
「泣いてません」
「泣くなとは言ってねえ。飯を食えって言ってんだ」
松陰は椀を持った。手はまだ震えていた。
「……森さん。晋作は、いつからああなんですか」
「ああって何が」
「薬とか、夜中のこととか」
長可は頭を掻いた。少し考えて、何でもないことのように言った。
「前は飯も食わねえ日があったからな。今は食う。若先生が来てからだ」
松陰は椀を持ったまま動かなかった。ご飯を食べない日があった。何日あったのか、何年あったのか、長可は言わなかった。たぶん本人も数えていない。
「うまいか」
「……はい」
「自分で育てたんだ。そりゃそうだ」
長可は満足そうに笑った。松陰は茄子を噛みながら、自分がこの屋敷で何をしていたのかを、初めて知った。
其の十一医神
「子供は連れてくるなと言ったはずだが」
「勝手についてきた」
診察室で晋作が顔を背ける。白衣の男は松陰を一瞥して、それきり晋作へ視線を戻した。松陰は膝の上の本を閉じる。表紙の題字はもう読めない。
検査のために晋作が別室に移ると、松陰はすかさず白衣の男に顔を向けた。
「質問があります」
「却下だ」
「まだ何も言っていません」
「患者の既往を話す趣味はない。帰れ」
取りつく島がなかった。松陰は親指を顎に当てる。
「先月、晋作は朝の薬を飲みませんでしたが、夕方に飲みました」
白衣が止まった。ゆっくりと椅子が回り、初めて松陰の顔を正面から見た。
「……君が管理しているのか」
「はい」
「飲み忘れの頻度は。飲まない日はどうしてる」
「飲まない日はありませんが、時間がずれることはあります」
男は机に向き直り、何かを書きつけた。
「拒薬は身体に負担がかかる。あれの心臓は替えが利かない」
「……替えが、利かない?」
男は口を開きかけて、やめた。
「二度目の移植は現実的ではない。以上だ」
以上だ、と言われても、松陰の頭の中では終わらなかった。二度目。二度目ということは。
帰りの車の中で、晋作は何も喋らなかった。松陰も喋らなかった。
其の十二寸法
松陰の袖が短くなった。去年の靴も入らない。長可が笑い、晋作が仕立屋を貸切にした。強面が十人、店の外に並んでいる。店員の手が震えていた。
「晋作も何か買えばいいのに」
「僕はもう成長しないんだよ」
「──せっかくですから」
押し切られた晋作が試着室に入る。この人は真夏でも襟を詰めた服を着ていた。屋敷で肌を見せたことは一度もない。
鏡の角度が悪かった。合わせ鏡の隅に、白いものが映る。胸から下へ、思っていたより長い線。松陰は目を逸らし、何も言わなかった。試着室の扉が閉まる音がした。
松陰の衣服を会計するとき、店員が丈を詰めますかと尋ねた。晋作は首を振った。
「すぐ大きくなる。また買えばいい」
松陰は一瞬、息を呑んだ。そのあと、聞こえなかったような顔で頷いた。
「……はい」
帰りの車で二人とも窓の外を見ていた。運転する長可だけが、やたらと機嫌が良かった。
其の十三図鑑
松陰がまた熱を出して寝込んだ日、晋作は枕元に水差しを置いて、床に落ちている本を拾い上げた。この子供がいつも抱えていたものである。
表紙が擦り切れて題字が消えている。晋作は頁をめくって、眼を瞠った。
学名。分布。開花期。花の絵。それだけの、植物図鑑だった。
物語などどこにも書かれていない。
夜ごと読み聞かせをされていたはずだった。旅をする種の話や、水を分け合う根の話を、たしかに聞いた。晋作は眠る前の朦朧とした頭で聞き流していた。
指が止まる。頁の隅、鉛筆の走り書きがあった。子供の字だ。何度も書き足されて、余白が黒くなっている。
晋作は読まなかった。読める字だったが、読まなかった。あの人だったら躊躇わず読んだろうな、と苦笑して、晋作は図鑑を閉じて松陰の枕元に置いた。
松陰が寝返りを打って、何か寝言を言った。晋作には分からなかった。
其の十四神様
熱が下がった翌日、松陰は畑にいた。晋作がそばで見ていることには気付いていた。
「その本」
「はい」
「物語は、どこに書いてあるんだ」
松陰の手が止まる。土を握ったまま、しばらく黙っていた。
「……書いてありません。僕が考えました」
松陰はぽつぽつと話し始めた。
貧しい村には本がこの一冊しかなかった。字もそれで覚えた。七歳の頃には図鑑の中身を全て覚えてしまったので、絵を見て物語を作った。作った物語を村の子供に聞かせたら、大人が来た。
そのうち誰も自分の話を「話」として聞かなくなった。神託だと言われた。畑に出れば作物が実ると言われ、自分が触った石を家に持ち帰る者が出た。両親が死んだときは誰も泣かなかった。神様の親だから天に還ったのだと言われた。
守ってくれる者がいなくなり、噂が広がり、とうとう売られた。高値がつくだろうと。
「僕もみんなも、同じ成分でできているんですけどね」
松陰は土を払った。
「逃げようとは思わなかったのか」
「思いました。でも、外がどうなっているか知らなかった。逃げても同じかもしれないと思ったら、足が動かなくて」
晋作は何も言わなかった。松陰は苗を植え直しながら、思い出したように付け足した。
「あの本、事実しか書いていないんです。花が咲く時期とか、根の張り方とか。だから安心します。誰も僕のことを何とも思っていない」
其の十五作法
雨の日だった。松陰は何気なく口を開いた。ずっと引っかかっていたことだった。
「晋作は、僕と心中したいんですよね」
「……そうだ」
「でしたら、無理心中というものがあると本に書いてありました。あれをすれば、話は早いのでは」
音が消えた。
晋作が振り返る。松陰は自分の失敗をその瞬間に理解した。晋作は怒鳴らなかった。声も荒げなかった。ただ、静かに言った。
「あれは殺人だ」
「……はい」
「心中じゃない。相手が選んでないものは、心中とは言わん」
それきり、晋作は黙った。長い沈黙だった。雨の音がやけに大きかった。
松陰はその夜、布団の中で天井を見ていた。何かがおかしい。あの人は、選ばれていない死だけは絶対に許さない。
なぜ、あんなに潔癖なのだろう。
考えているうちに、胸の奥が妙な具合に痛くなった。理由はまだ分からなかった。
其の十六瓜二つ
二度目の移植は現実的ではない、と医者は言った。二度目。ならば一度目がある。あの心臓は誰かのものだ。
松陰は調べた。晋作は二十九までと言った。半端な数字は、それが心臓の元の持ち主の享年だったからではないか。手術の傷は古い。十年、あるいはそれ以上。
森さんが来たときには、もう晋作が二代目だった。では先代はどこへ行ったのか。誰も口にしない人がいる。
古い名簿、決算書、代替わりの日付。指を止めながら、頁をめくるように記憶を並べていく。
晋作に代替わりしてから帳簿の筆跡が変わっている。数字も変わった。不自然なほど綺麗になって、先代の頃とは別の商売のようだった。
先代の名前はその日を境にどこにも出てこない。引退した人間の記録は残る。残っていない。
結論は出た。先代が死に、その心臓が晋作に入った。
顔を見たいと思った。ただそれだけの理由で、松陰は一番下の引き出しを開けた。
書類の束に紛れて、写真が一枚あった。
どこかの庭。男が二人。片方は十六、七の少年で、紅い髪の三つ編みをしている。晋作だとすぐに分かった。
もう片方は、松陰だった。
大人になった松陰がそこにいる。同じ目の形、同じ鼻筋、同じ口元。背が高く、笑っていない。晋作は顔をくしゃくしゃにして笑っていた。
松陰は写真を持ったまま、しばらく息をしなかった。
僕は僕だ。この人では、ない。ないはずだ。先生、と呼ぶ声が頭の中で跳ね返った。晋作が寝ぼけたときに呼ぶ名前。先生じゃありませんと言うたびに、知ってると返された、あの声。
調べていたのは心臓のことだった。心臓のことだけだった。
写真の裏に日付だけが書いてある。十一年前。
松陰は写真を戻さなかった。持ったまま、廊下に出て、そのまま座り込んだ。
其の十七茶
長可に襟首を掴まれた。ずるずると廊下から談話室まで引き摺られた。ソファに投げ出されても、写真から指は離さなかった。
凶悪な顔つきの男が、ひどく丁寧な手つきで茶を淹れている。
「飲め」
「森さん、僕は」
「飲んでから喋れ」
松陰は言われた通りに飲んだ。熱くて、苦かった。
「森さんは、この人を知っていますか」
写真を出した。長可は覗き込んで、首を横に振った。
「知らねえな」
「僕は、この人に似ています」
「似てるっちゃ似てるか」
「だから拾われたんです。僕がどうかは関係なかった」
長可が眉を寄せた。
「僕は僕です。村では神様だと言われて、売られるときには高く値がつきました。ぜんぶ、僕とは関係ない」
長可は湯呑みを片付けながら、面倒くさそうに言った。
「知らねえよ。オレはお前しか知らねえ」
松陰は顔を上げた。
「その顔した奴が畑作って、大根の葉なんか食わせてきて、二代目が飯を食うようになった。オレが知ってんのはそれだけだ。前の奴のことは知らねえ」
膝の上で、松陰は写真を握り直した。
「聞けばいいだろ」
長可は立ち上がった。
「あいつ、嘘は言わねえよ。都合の悪いことは黙るがな」
其の十八手術
「僕は、代わりだったんですか」
書斎である。机の上の古い写真に、晋作は思わず口を歪めた。手元の書類を放り投げ、もう一度写真を見て、それから松陰の顔を見た。
長い時間が過ぎた。
「……そんなもんじゃない」
晋作は笑った。自分でもひどく醜い笑い方だと思った。
「代わりにすら、なれなかった」
そうして晋作は話した。十一で売られたこと。売り飛ばされる寸前に飛び降りて、死に損なって、それからあの人に拾われたこと。飯を食わせてくれて、字も教えてくれた。
あの人には眠ったままの恋人がいた。短く切り揃えられた髪の色が自分と似ていた。心臓が駄目になっていた。だから晋作は申し出た。
僕の心臓を、と。
役に立ちたかった。
検査の結果、適合すると言われた。ただし身体ができるまで待てと。生まれた意味と死ぬ意味を同時に知った。
それから六年、待った。
手術の日、晋作は満ち足りていた。ベッドの上で別れを言った。先生と会えて幸せでした、と。あの人は目を伏せて『僕もです』と言った。
「起きたら、胸に傷があった」
晋作は自分の左胸に手を当てた。ぐしゃりと、布地を掴む。
「僕の心臓が病気だった。移植しなきゃ助からなかったんだとさ。適合したのが、あの人の心臓だった」
だから晋作は捧げる側ではなかった。捧げられた側だった。目を覚ましたとき、先生も、先生の大切な人も、もういなかった。
「僕に、誰も何も聞かなかった。僕が選ぶ場面は、一度もなかった」
窓の外が暗くなっていた。誰も明かりを点けなかった。
手の下で心臓が脈打つ。これは預かり物だ。それだけが分かっていた。
「なんで生きてるのか、分からんまま生きてる」
其の十九いやです
「だから、今度こそ選んでほしい」
晋作は顔を上げなかった。机の木目を見たまま言った。
「僕と一緒に死ぬと、決めてくれ。それなら意味がある」
松陰は写真を手に取った。もう一度、その顔を見た。自分と同じ顔をした、会ったことのない人。
「いやです」
即答だった。最初の夜と同じ。
考える必要がなかった。答えならずっと前から決まっている。
晋作の肩が落ちた。分かっていた、という落ち方だった。
「晋作が選んでほしいのは、僕じゃありません。この人です」
松陰は写真を置いた。
「同じことをやり直したいだけでしょう。それはまだ終わっていない話です」
「……」
「もし晋作が、この人ではなく僕を見て、それでも一緒に死にたいと言うなら。そのときは少し悩みます」
晋作は答えなかった。
「それと」松陰は続けた。「晋作は自分のことを、借り物とか、代わりとか、そういう言い方をしますね」
「事実だ」
「僕の図鑑には花が何百と載っています」
晋作が顔を上げた。
「分類的には花は花です。それでも一つずつ名前がついて、絵が描いてあって、いつ咲くのかまで書いてある」
それは自分の世界の全てだ。だから、松陰は微笑んだ。
「代わりがあるから描かなくていい、とは誰も言いませんでした」
晋作の顔が固まった。
それから肩が震えだした。泣いているのかと思った。違った。晋作が声を上げて笑っている。息が乱れるほど。松陰は心配になった。
ひとしきり笑って、晋作が目尻を指で拭った。そうして、松陰に向けられたのは、恍惚とした表情だった。
「……今度こそ、心中しましょうね、先生」
「え。……いや、です」
松陰は少し悩んでから断った。
其の二十過ぎた日
年が明けて、しばらく経った頃だった。
長可が書類を置いていった。判を押しながら晋作は日付の欄で手を止めた。自分の歳を数えた。もう一度数えた。何度数えても同じだった。
過ぎている。
いつのまにか、あの数字を通り越していた。誰にも報告せず、自分でも気付かず、飯を食って、薬を飲んで、判を押して、そうしているうちに。
窓の外、松陰が畑にいる。
晋作は立ち上がった。廊下を抜け、サンダルをつっかけて、裏手に降りた。土の上に立つのは初めてだった。
「どうしました」
松陰が顔を上げた。顔に土がついている。頬の丸みがいつのまにか薄くなっていた。いつのまに育ったんだ、と場違いなことを思った。
「来年は、何を植えるんだ」
松陰の手が止まった。しばらく黙っていた。この子供は何でも覚えている。だから晋作が何を言ったのか、正確に分かっている。
「まだ決めていません」
「そうか」
「決めていいんですか」
風が吹いた。晋作は答えなかった。それから、答えた。
「ああ」
松陰は下を向いて、土を掘り返した。何か言おうとして、やめた。もう一度掘り返して、それから立ち上がった。
「晩ご飯、お粥にしますね」
「なんでだ」
「晋作が最初にくれたので」
晋作は何か言おうとしたけれど、言葉にならなかった。
その晩の粥には、松陰が育てた青菜が浮いていた。晋作は黙って食べた。やけに温かかった。
胸に手を当てる。心臓は、静かに動いていた。
第三部
其の二十一隙間
真夜中、また床が軋んだ。
晋作はクローゼットの床に丸まっている。掃除道具と段ボールの隙間。何もかもが昔のままで、ガラクタの量だけが増えた。
扉が開いた。毛布を引きずった松陰が、当然のような顔で身体をねじ込もうとして、止まる。
「……入りません」
「だろうな」
「いえ、入ります」
押し込んできた。段ボールが崩れ、掃除道具が倒れた。晋作の肩が、壁と松陰の間で圧し潰される。
「……狭いです」
「だから何回言えば学習するんだよ」
「でも」
松陰の腕が伸びて、晋作の頭の上で壁をついた。逃げ場がなくなる。
「晋作を包めるぐらい、大きくなれました」
嬉しそうに、目尻を下げて。晋作は返す言葉を探して、見つからなかった。顔が近い。松陰は退かない。
昔、同じ顔をした人がいた。背が高くて、笑わない人だった。あの人がこんな風に笑ったところを、晋作は一度も見たことがない。
……ああ。
胸の穴には、今夜も余計なものが詰まっている。
其の二十二支柱
昼下がりのソファで、松陰が居眠りをしていた。大学の課題を広げたままである。一年生の前期は課題が多いらしい。
晋作は毛布を掛けてやろうとして、手を止めた。
前髪の隙間。額の生え際に白い線がある。気付けば松陰の髪を掻き分けていた。
名を呼ぼうとして、出てこなかった。
「――おい。なんだこれは」
松陰の身体がびくんと跳ねた。
「最近の傷じゃないよな」
「え、あ、ちが、これは、その」
「誰にやられた」
「ちが、違います、子供の頃で、台風の」
「……ああ」
晋作の指から力が抜けた。支柱だ。いつだったか、畑の支柱が折れて、この子供が雨の中に飛び出していったことがあった。血を流して帰ってきて、それでも苗の心配ばかりしていた。
こんな傷になっていたのか。
指の腹で白い線に触れる。なぞりながら、ふと自分の胸を思った。同じ色の線が、もっと長く走っている。見せたことは一度もない。
「……あの、晋作」
「なんだ」
「顔が、近いです」
「……」
晋作は手を離さなかった。
「別に近くない」
そう言い切って、他にも傷がないか確認する。何やら呻く声が聞こえるも、また知らない傷を見つけて晋作は舌打ちをした。他にもあるんじゃないかと松陰のシャツに手を伸ばしかけ、止めた。
「……そうだな、近いな」
晋作は手を引いた。見せたくないものぐらい、あるだろう。
「……僕のは、見てもいいのに」
小さな声だった。晋作は聞こえなかったふりをして、毛布を掛け直した。
其の二十三賭け
「若先生よお、大学でめちゃくちゃモテるんだよな」
長可が茶を置きながら言った。晋作は書類から目を上げない。
「そうか。まあ当然だろう。容姿も立ち居振る舞いも整っているし、何より誠実さは誰の目にも明らかだ。好かれない理由の方が思いつかない」
「すげー喋るじゃん」
「普通だ」
「本人が困ってんだよ。子供の頃から決めたやつがいるらしいぜ」
「……」
晋作の判が止まった。誰だ、と言いかけて、やめた。聞く権利がない気がした。
「部下が賭け事してんだよな。若先生がいつ告白するかって」
「話変わったか?」
「変わってねえよ」
長可は湯呑みを持って出ていった。晋作は判を持ったまま、しばらく動かなかった。
窓の外、松陰が苗を植えている。植え終わると土を両手で押さえて、動かない。あの子供は毎回そうする。根が付くまで手を離さないつもりなのかと、昔、聞いたことがあった。「離しても付きますよ」と笑われた。それでも毎回やっている。
視線に気付いたのか、松陰が顔を上げる。にこにこしながら手を振ってきた。晋作は手を上げ返した。
誰だ。
判を押した。逆さだった。
其の二十四数値
定期検診の日だった。松陰は当然のように診察室までついてきて、当然のように晋作の隣に立った。はぁ、と深いため息だけをついて、白衣の男は何も言わなかった。
「数値は良好だ。移植後としてこれは上出来と言っていい」
「……そうかよ」
晋作が明らかに不機嫌になった。晋作は褒められるのが嫌なのだ、と松陰は思う。先代の心臓が、先代の身体以外でよく働いているということが。
「最近の食事と運動は」
松陰が身を乗り出した。
「外食が多いときは朝を粥にするなど一週間トータルで塩分を計算しています。畑の野菜なら良く食べるので多めに出してます。運動は散歩を三十分、週に三日から五日。薬は僕が管理しています。飲み忘れは去年一度だけです」
「……よく喋る子だな」
「はい」
医者の口の端が、ほんの少しだけ動いた。それから晋作を見た。
「中身が似てないのは僥倖だったな」
晋作の肩が跳ねた。同時に、松陰の喉も狭まった。
「僕は医者だ。生きる方に加担する以外のことはしない。あの男がやったことを、僕は生涯許さん」
医者はペンを置いた。
「だが、いま、お前がここにいることには敬意を表する」
しばらく、誰も喋らなかった。
「……あの男の恋人に合う心臓は、見つからなかったがな。世界中どこにも」
晋作が別室に向かった隙に、松陰は白衣の男に向き直った。
「あの人の記録が残っているなら、見たいです。全部」
「何のためだ」
「僕は、忘れませんから」
男は答えなかった。ペンを持ったまま、それだけだった。
松陰は晋作を待っている間、廊下の壁の資料棚を眺めていた。移植後の経過について書かれた冊子を開く。
目に入った。数字が並んでいた。
松陰は目を逸らした。逸らしても遅い。見たものは全部、そのまま残ってしまう。
診察室の扉が開いた。松陰は何でもない顔で立ち上がった。
其の二十五種
大学の夏休み、松陰が旅行に行くと言い出した。一か月ほど、リュックサックひとつで。
晋作は反対しなかった。反対する理屈がなかった。長可が空港まで送ると言ったが、松陰はひとりで行きますと言って、本当にひとりで行った。
屋敷は静かだった。畑の水やりは長可がやった。晋作は三日ほど畑を見ていた。
「二代目。飯」
「いらん」
「若先生に言うぞ」
「……食う」
一か月は長かった。
帰ってきた松陰はひどく薄汚れていた。日に焼けて、リュックの紐がほつれて、靴は土だらけだった。晋作は玄関で言葉を失った。松陰は長可を見て、部下たちを見て、それから晋作を見つけた。そこで初めて笑った。
「ただいま帰りました」
「……どこへ行った」
「途中から歩いたり、乗せてもらったりしました」
「そうじゃない。どこへ行った」
松陰は靴を脱いで、揃えた。
「村です。僕が生まれた」
晋作の喉が鳴った。
「廃村になっていました。建物はありましたが、人は誰もいなくて。うちの畑も、ずいぶん前に駄目になっていたようです」
「……そうか」
「はい」
松陰はリュックサックを開ける。小さな紙包みが出てきた。中身は種だった。なんの変哲もない、種。
「作物は駄目でしたけど、これは生きていました。家の裏に咲いていたんです。……知っている花でした」
「花か」
「はい。図鑑の百十二頁です。日当たりのいい場所を好んで、春に咲きます」
松陰が晋作の手を取って、種を握らせた。手のひらが土くさかった。
「よければ、晋作と一緒に植えたい」
晋作は種を握ったまま、何も言わなかった。一か月ぶりの松陰の手はあたたかく、晋作は「ああ」と短く答えた。
其の二十六六年
医者から封筒が届いたのは、定期検診からしばらく経った頃だった。宛名は松陰になっていた。
中身は古い記録の写しだった。適合検査の日付。晋作と、先代と、その恋人。
松陰は日付を三度見た。
手術の日付は知っている。晋作が十七の年だ。この検査は、その六年前に行われている。晋作が十一の年。拾われた年だ。
晋作は言っていた。恋人と適合すると言われた、と。ならばこの検査は何だ。晋作と先代の適合検査が、拾われた年に済んでいる。
――嘘だったのか。最初から。
書類には理由が書いていない。どこにも書いていない。日付だけがある。
「何を見てる」
晋作が扉のところに立っていた。松陰は書類を持ったまま振り返った。振り返ってから、自分の顔がどうなっているのか分からないと気付いた。
「晋作……」
消え入りそうな自分の声音に、晋作は表情を変えなかった。
「晋作を拾った年に、あの人は検査を受けています。手術の六年前に」
書類を持つ指が勝手に震えている。声も震えていた。
「六年です。六年間、あの人は君にご飯を与えて、君に心臓を移す日を待っていた。君が育つのを待っていたんです。ずっと、嘘をついて。そんなの、君に――」
「知ってる」
松陰の指が止まった。
「継いだあと、全部調べた。あの人の心臓が僕に入ったことも、恋人との適合が嘘だったことも。……あの人の恋人は、僕が手術する一年前に死んでた」
晋作は扉のところから動かなかった。
「一年あった。やめる時間は、いくらでもあったんだ」
晋作が乾いた笑みを零す。
松陰は書類をぐしゃりと握り締めた。
「僕はあの人が嫌いです」
「松陰」
名前を呼ばれたのは初めてだった。それでも言葉が止められない。
「勝手に拾って、勝手に育てて、勝手に決めて。君に何ひとつ聞かなかった。君が捧げる側だと嘘までついて、君がそれからどうなるかも考えなかった。勝手に、勝手に死んだあの人のせいで……ッ」
あなたのせいで、この人は僕を見ない。
言葉にはしなかった。こんなに醜いものが混ざっていると知られたくなかった。
晋作は何も言わなかった。松陰は痺れる指を開く。喉が痛かった。人を憎むという行為に、こんなに体力を使うとは知らなかった。
「……すみません」
「謝るな」
晋作は書類を取って、日付を見た。目が伏せられる。
「僕もそう言えたら、良かった」
ただの数字を長いこと見つめたあと、ぽつりと呟いた。
「そうか。……六年前ってのは、初めて見たな」
其の二十七線香
医者から届いた書類には霊園の名前と区画番号だけが書いてあった。書類は、本当に資料だけだった。私信も何一つなかった。
郊外の霊園。晋作の顔からさっと血の気が引いたのを松陰は見た。埋葬場所だけが分からなかったという呟きに、松陰は我知らず拳を握った。
管理事務所で名前を告げると、初老の管理人が顔を上げた。そして松陰を見て、固まった。
「……あんた」
立ち上がりかけて、思い直したように座り直した。手が震えていた。
「いえ。いや、失礼。似た方を、昔」
「よく言われます」
松陰は口端だけを持ち上げて微笑んだ。晋作が静かに息を詰める。
「でも、僕は僕ですから」
管理人は帽子を取って、深く頭を下げた。詫びなのか、挨拶なのか、松陰には分からなかった。
墓は、隣り合って二つあった。
墓石には何も彫られていない。二つとも、花が供えられていた。枯れていない。誰かが来ている。
晋作はしばらく立っていた。それから膝を折って、線香に火を点ける。煙が不自然に揺れた。
「……ちゃんと、隣なんだな」
晋作の声は掠れていた。松陰は何も言わずに水桶を置いた。
晋作が手を合わせている。
少し離れた場所から、晋作の背中を見ていた。こんなに小さい背中だっただろうか。誰かに詫びるように髪が揺れた。
手は合わせなかった。
代わりに墓石を見た。
この人を、生きたまま持っていく。何十年でも。
風が吹いた。線香の煙が横に流れた。
晋作が立ち上がって、振り返った。
「行くか」
「はい」
帰りの車で晋作は窓の外を見ていた。松陰も窓の外を見ていた。運転する長可だけが、やたらと静かだった。
其の二十八続柄
畑に霜が降りた朝だった。
松陰は葉の上の白いものを指で払った。溶けて、指が濡れた。縁側に晋作がいた。いつからいたのか分からなかった。
「凍るのか」
「これぐらいなら大丈夫です。根が生きていれば」
「そうか」
晋作はそれきり黙った。松陰も黙って、次の葉を払った。
晋作が倒れたのは、その数日後だった。
廊下だった。音がして、松陰が走って、その時にはもう晋作は自分で起き上がろうとしていた。顔は白く、息が浅い。
松陰は医者に電話をかけ、救急車を呼んだ。長可を呼んだ。荷物をまとめた。全部で四分だった。
晋作が何か言った。松陰は聞かなかった。
近隣の病院に搬送され、検査の結果、命に関わるものではなかった。よくある感染症でも、免疫を抑えている身体には重い。数日入院することになった。
受付で書類を渡され、松陰はペンを持った。
氏名。住所。連絡先。
続柄。
手が止まった。
同居人ではない。家族ではない。保護者は向こうだ。この関係に当てはまる語が、日本語のどこにもなかった。
書けるなら書きたい語が、一つだけあった。
雨の日のことが鮮明に蘇る。無理心中を殺人だと言い切った、静かな瞳。相手が選んでいないものは決して認めない人。誰の中にも、勝手には入ってこない人。
その夜、胸が痛んだ。理由は分からなかった。分かったのは、ずっとあとだ。
この人に、見てほしかった。
けれど書けば嘘になる。まだ、何も言っていない。
松陰は空欄のまま出した。受付の人が何か聞きたそうな顔をして、結局何も聞かなかった。
病室で、晋作は目を開けていた。
「……勝手に決めたな」
松陰は椅子の横に立ったまま、動けなくなった。
「はい」
「そうか」
それだけだった。晋作は怒らなかった。文句も言わなかった。天井を見て、それきり黙った。
松陰は床を見ていた。
僕は聞かなかった。倒れた君に、どうしたいですかと一度も聞かなかった。医者を呼ぶかも、入院するかも、僕が決めた。君は選んでいない。
君が一番されたくないことを、僕がやった。
あの人と同じことを。
「……晋作」
「なんだ」
「次は、聞きます」
晋作が首だけ動かして、こちらを見た気がした。
「聞いてどうする。僕が嫌だと言ったら、放っておくのか」
「いえ。放っておきません」
「じゃあ聞くなよ。時間の無駄だ」
松陰は顔を上げた。晋作は天井に視線を戻していた。
「……あの人とは、違う」
松陰はその言葉の意味を聞こうとして、聞けなかった。
その夜、松陰は病室の椅子で眠った。屋敷から持ってきた図鑑を膝の上に乗せて。
其の二十九老眼
晋作は長可を呼び出した。人払いまでした。
「僕はもう三十四を過ぎた、立派なおっさんだ。最近は近い文字がちょっと見えにくい」
「早くねえか?」
「うるさいな。その、最近な、松陰が近い。物理的に。僕が倒れたせいかと思っていたが、やっぱり距離が前と違うんだ」
「賭けの相場が荒れるな」
「とにかく! そういう雰囲気になったら君が止めに入れ。空気を読まないのは得意だろ」
「タイミングよく入れるわけねーだろ。大体、そんなヘマを若先生がするかよ」
「……」
「別に嫌なら振りゃいいだろ」
「……たくない」
「あ?」
「振りたくないんだよ! 正確に言えば振らなきゃいけないのに振りたくないんだ!」
長可の肩がずり落ちた。晋作は自分の言ったことに自分で青ざめていた。
「……今のは忘れろ」
「惚れてんのか?」
「違う。そんな器官はもう入ってない」
「二代目よお」
長可は肩を竦めた。
「あんたの身体、何で出来てるんだ?」
晋作は答えなかった。答えられなかった。あの瞳は、いつから向けられていたのか。
思い出そうとして、思い出せなかった。気付いたら、そこにあった。
ただ、消えろとは思わなかった。
其の三十墓
春になった。
松陰が村から持ち帰った種が芽を出して、五月に花をつけた。畑とは別の花壇に、白い小さな花が並んだ。見せてもらった図鑑の百十二頁と同じ形だった。
晋作は縁側から眺めている。松陰は土を払って隣に座った。土のついた、大きな手を、晋作は見ていた。
「……松陰」
「はい」
「一つ言っていいか」
「どうぞ」
晋作は白い花に視線を移して、口を開いた。
「僕は君と心中したかった。ずっとだ。今も、たぶん、消えてはいない」
松陰は黙って聞いている。
「だがな。この頃、そうじゃないことを考える」
「はい」
「一緒の墓に入りたい」
風が吹いた。花が揺れた。
「同じ石の下だ。僕が先に入るだろうな。それまでは、まあ、飯を食う」
晋作は言い終えてから、自分の手を見た。この手の下には何が巡っている。あの人の心臓が送り出した血か、あるいは毎朝出される野菜の栄養か。
「……君が望むものは、たぶん、何も差し出せない。そういうのとは違う。違うんだが、君以外は嫌だ。すまん、うまく言えん」
松陰は返事をしなかった。
晋作が横を見た。松陰は前を向いたまま、少し笑っていた。泣きそうな笑い方だった。
「いいですよ」
晋作の目が見開かれた。
「いいのか」
「はい」
「……断らないのか」
「断りません」
松陰は膝の上で手を組んだ。一瞬だけ、組んだ指に力が込められたように見えた。松陰が晋作を見た。
「僕は晋作と死ぬのは絶対に嫌です。何があっても嫌です。でも、同じ墓なら構いません。それは、生きたあとの話ですから」
晋作は何か言おうとして、やめた。もう一度、花を見た。
「契約でも、約束でもない。僕が墓で待つ時間の方がずっと長いぞ」
「分かっています」
「本当に長いぞ」
松陰はすぐには答えなかった。花を見て、自分の手を見て、それからようやく晋作を見た。
「はい。だから、待っていてください」
柔らかな声音だった。この子供は何でも覚えている。僕が消えても、たぶん何一つ欠けずに残る。
可哀想だと思うべきなのに、思えなかった。
松陰が恐る恐るといった様子で、手を伸ばした。縁側に置いた自分の手に、土で汚れた手が重なった。晋作はふっと笑った。握り返しはしない。
初めて会った頃を思い出す。まだ幼い瞳を見て、ああ、ようやくと肩の荷が下りた気がしたのだ。今、同じように安堵している。
そうか。
僕は、生きたかったのか。