Fair is foul, and foul is fair.
あの時、振りかざしたのは、
僕は君に。
僕は君に。
……何を叫んだのだろうか。
第三章
「ビリー・ザ・キッド! 僕を撃て!」
「撃てるもんならとっくに撃ってる!」
刃長二尺三寸の死の影が踊る。剣戟が耳を劈き、嚇怒で血管が焼き切れる。
高杉晋作は刀の柄に指を添え、刀を上段に構える。
指一本、爪先の先まで自身の意思では動かぬ己の醜態に歯軋りする。刀を振り下ろす先には右腕の刀疵から血を流し、抜刀し構える恩師の姿。
吉田松陰は脂汗を額に滲ませ、身体の正中線を隠すように刀を斜めに構える。その構えを見て、晋作は舌打ちした。
右腕の傷のせいで刀が下がり過ぎだ。
クソッタレ、と己に毒づく。生前散々身に染みついた柳生新隠流の剣術が松陰の構えの甘さを見抜いてしまう。瞬間、晋作の意思とは無関係に足が地面を蹴る。
「先生ッ! 右ッ!」
「——ッ」
晋作の叫びに松陰は咄嗟に反応し、晋作からの右から剣撃を刀で受け流す。が、塞がらぬ右腕の傷口から血が滴り落ち、松陰は激痛に堪えるようにぐっと唸った。
離れた場所にいる藤丸とビリーが洞窟の岩肌を背にし、周囲の影に応戦している。
「松陰先生! 高杉さん!」
「マスターは下がってて! 悪いがこっちは手一杯だ! 早くシンサクを無力化しろ!」
ビリーが一撃で影の核を撃ち抜くも、溶けた灰のような泥から再び影がぬらりと起き上がる。
微小特異点の探索中の戦闘。それはすでに日常の一部と化した非日常ではあったけれども、油断も慢心も無かった。けれども洞窟の中に潜んだ巧妙な罠。
晋作は洞窟の上部から滴り落ちた水滴を避けようと身体を傾け、岩肌に手をついた。そこに手の平よりも小さな紋様が浮かび上がり、消えた。
それは気付かぬ内に晋作の魔力に浸透し、手足の先まで侵食した。そうして、敵に囲まれた瞬間、突如抜刀した晋作は松陰を斬りつけた。
(首から上は無事。だが、首から下は全く感覚が無い。くそっ、生首になったらこんな感じか⁉︎)
鈍い金属音が鳴り響き、刀の物打同士が鬩ぎ合う。目で見えるかのような尋常ではない力が刀を圧迫し、鯉口がかちゃかちゃと耳障りな音を立てる。
晋作の目の前には苦痛に歪んだ松陰の顔がある。操られたこちらの手足は松陰を殺そうとしているのに、松陰はあくまでも晋作の無力化を狙っている。
(
宝具は撃とうにも魔力も制限されていて撃てない。思考が無事なのは身に染みついた技術で圧倒するためと仲間への精神攻撃も兼ねているのだろう。
それは対松陰ともなれば最低最悪なほど効果を発した。
晋作は刀の刃を滑らせてそのまま摺り足で一気に踏み込む。刀の切先が松陰の刀から離れ、きぃんと澄んだ金属音を響かせ、直線的な軌道を描いて松陰の首に向かう。
ぞっとした。
だが晋作の顔から血の気が引くよりも早く、松陰が紙一重で晋作の刀を避け、そのまま腰を落として晋作の腹に容赦ない蹴りを入れた。
膂力で晋作を十分に上回る松陰の突き刺すような蹴込みは地響きのような重く鈍い音を立てる。だが、晋作は足裏で踏ん張り耐えた。否、耐えた訳では無い。
痛みも衝撃もあったのに、それが信号として身体に伝達しない。魔力で操られた身体は晋作の痛覚を一切無視して目の前の『敵』を殺す。
「——せ、んせ、避け——」
痛みで思考がまとまらないのに、骨の髄まで染み付いた剣術は無機質に松陰の脚を斬り落とすべく振り下ろされる。
松陰が地面に突き刺した刀を軸にして蹴り延びた脚の軌道を変え、反対側の脚で晋作の側頭部を正確無比に狙う。
蹴り抜けば確実に意識を刈り取る豪脚は、寸前で腕を引き戻した晋作の刀の柄で足首を跳ね上げられ、松陰は重心を崩し、外套を翻して片膝をつく。
松陰がはっと顔を上げれば、今にも泣き出しそうな顔をした晋作が刀を振り上げていた。
———ぎぃん!
剣戟が木霊する。晋作は奥歯を砕きかねないほど歯を食い縛って自分では無い手足に必死に抵抗する。
だが、身体は動かない。
片膝をついた松陰の首を落とすべく、晋作が握るあらん限りの力を込めた刀は松陰の首に届きかけた。
松陰が柄と峰に手をかけて晋作の刀を押し返そうとする。だが、片膝をついた状態では思うように力が入らないのか、ただ拮抗するだけだった刀が徐々に、徐々に、松陰が押し負ける。
晋作の刀が松陰の首に届くまで、あと三寸。刃文に鋭い眼光と顔を歪ませた松陰の顔が映る。
(首が、)
首が落ちる。
先生の首が落ちる。
途端、視界が霞みがかったようにぼやける。視覚も聴覚も鼓動も何もかもが邪魔だ。晋作は焦点を無くした脳内で力の及ぶ限りの思考を尽くした。
(考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ! 天命も他力本願も糞喰らえだ! 首から上は動くんだ! なんかあるだろ!)
死があと二寸まで迫る。
脂汗か冷や汗か、尋常では無い汗が互いの額から滴り落ちる。食い縛った歯から不協和音が鳴る。
首が、首が落ちる。先生の首が落ちる。
皮膚と肉に刀が食い込み、筋肉と神経がぶちぶちと裂かれ、切断された血管からは夥しい血が溢れ出す。首の骨の隙間に刀が滑れば、最早何も引っ掛るものは無く、引いた刃は喉元の皮膚まで綺麗に捌いた。
刹那、ひゅんと青空に浮く首は蹴鞠のようには舞わず、重力に従って昏い穴にずどんと落ちて、穴の中で土に塗れてごろんと転がる。
まだ生温かい首と眼が合った。
幾度も見た悪夢が眼前に迫る。晋作の腹から酸が込み上げる。発狂寸前の恐慌が気管を締め付け呼吸の仕方さえも忘れさせたが、思考だけは止めない。止めたら、最後だ。首が、首が、首が———。
閃光が走る。
そう、
そうだ。
晋作は至極当然の事に気づいた。首から上は動く。
そう、口が動くじゃないか。
躊躇は無かった。結果など知らない。どうだっていい。何だっていい。あの日の後悔が走馬灯の如く甦り背中を押す。知ったことか、この身体など。
先生の首が落ちないのなら。
晋作は舌の上に自身の歯を乗せ、噛み切るべく渾身の力を込めた。
「——やめてくれ」
松陰が懇願する。
刀身が松陰の首に触れている。自身の命を惜しむのではない必死の命乞いの言葉。
自分の首に食い込みかけている刀などには目もくれず、一切の色を失った晋作に向けられた言葉と声音は哀れみを覚えるほど震えている。
ぷつり、と松陰の首に刀が食い込み、皮膚が切れて血が滴る。手足は動かず、唯一この状況を打開するための動作さえも止められた。
晋作は切れかかった舌から溢れた血を唇の端から流し、その瞳から絶たれた望みの涙を溢す。
だって、先生の、首、が。
くび、が。
「頼む」
言うな。
そんなこと。
刃が肉に食い込む。止めてはならぬ思考が止まる。進んではならぬ死が進む。晋作は軋んで欠けて割れた心のままに残った舌を噛み切ろうと更に顎に力を入れようとし——、
「見つけた」
少年悪漢王の心眼が捉えたと同時に銃撃音が響く。銃音は一つ。否、三つ。同じ箇所への三連射撃『
「———アラハバキッ!」
魔力の拘束が解けた瞬間、晋作は魔力を放出し、口内に溜まった血を撒き散らして持ち得る最大火力で宝具を撃つ。
多数召喚された奇兵隊が周囲の敵を無慈悲に灰燼に帰し、魔術師を失った影は灰から甦れず、地面に霧散した。そうして、撃ち漏れた敵もビリーの射撃から逃れられずに灰へと帰る。
晋作は口内に溢れた血が気管に入り、その場で激しく咳き込んだ。喀血のようなそれに晋作は泣き笑う。
畳で死ぬよりマシな死に方も出来ないのか。
晋作はそこで初めて、松陰を見た。首の傷口から溢れる血を手で抑え、こちらを咎めるような眼差しで見ている。
それがどうしようもなく癪に障って、口から吐き出したものは血よりも赤い憤怒だった。
「何で止めたんですか。先生の首が落ちるところだった」
「君が舌を噛み切っても刀は止まらなかった。どちらかしか生き残れないなら、君が残るべきだ」
またそれだ。いつもそれだ。晋作は唇を噛み締め、拳を握る。灰の中の埋づ火が瞳を燃やす。
天秤の皿に乗る時、この人はいつも自身のぶら下がった鎖を引き千切る。
皿には、本当に命だけが乗っているんですか?
「嘘だ」
断定した物言いに松陰が目を見開く。止まるべきなのに止まれない。言ってはいけないのに言ってしまう。まるで崖の端を疾走するかのような剣呑な怒りは晋作の視界を滲ませた。
最早目の前の恩師の姿は見えない。ただ、ただ、業火に焼かれて死ぬのが何より相応しいと自らを罰することを望んだ顔だけが脳裏に映り出される。
「先生は僕に負い目がある。僕に生き残って欲しいんじゃない、ただ僕より先に死んで償いたいだけだ!」
ずっと、ずっとずっと心の奥底にあった。蓋をして見えないようにしていただけの恋とも愛とも呼べぬそれ。
幾ら自分を救うとはいえ、嘔吐を堪えて目を滲ませて自害しそうなほど苦しんで犯した行為を償いたいだけじゃないかと。
誠実で清廉な人が犯したくも無かった許されざる大罪に裁かれる日をただ待っているだけじゃないかと。
言えなかった。言いたくなかった。
だって、そんな眼を見たくなかったから。
紅い十字星が氷のような冷徹さで細められ、聞く者全てを血まで凍らせるような声音で言い放たれる。
「僕は死にたがりでは無い。晋作、撤回を」
「嫌だね」
拒絶が響く。
償いではないと、松陰は言わなかった。
それが全てで、
それが答えだ。
「ご自分の首が落ちるのを造作もないと言うなら、僕が舌を噛み切って血を吐くぐらいどうってことないでしょう」
噛み殺した嗚咽も胸を掻き毟る想いも何もかもが遥か遠く、晋作は視界が世界が色を失っていく様を実感する。自分がどんな表情でどんな声音をしているのかも遥か遠くだ。
松陰の眼差しが更に氷輪のように凍てつく。少なくとも、晋作にはそう見えた。
「僕にもう一度君を汚せというのか」
「頼んでない。死に方は俺が決める」
それは紛う事なき断絶だった。
言いたかった言葉は言える筈もなくて、
飲み込むべきだったものを吐き出して、
吐き出してはいけなかったものを吐き出して。
鏡に映ったのは、呪い/自分だった。
生き物の気配が無い乾いた大地。西からの吹き荒ぶ風は、希望さえ奪うように砂埃を巻き上げて彼方へと姿を消す。うだるような暑さに喉の渇きを覚えた。
松陰は海の向こうに見える水平線を見たことはあっても、草木がほとんど生えない大地の地平線を見るのは初めてだった。
赤茶色の大地と蒼天の境目は赤い土埃で霞んでいる。滅多に雨が降らないと言うだけで、自分が生まれ育った故郷とは土が全く違う。何の作物なら育つだろうかと考えて、松陰は自分の思考に苦笑した。
『死人である僕らが何を夢見るっていうんです』
誰かを糾弾するような教え子の眼差しを思い出す。亡者が作物を育てられなくとも、生者に作物の育て方を教えることは出来る。
それでもきっと、亡者が作物を育てる夢を見ることも出来るのだ。
松陰の目の前で巨躯の背伏がうねり、揺れる視界に思わず顔を上げた。生まれて初めてと言っていい乗馬は思いがけず胸を弾ませるものだった。
巨躯の馬の走るためだけに特化した筋肉質な身体に似合わない童のような黒目に松陰は小さく笑って、手綱を握ってない方の手で首筋を撫でてやる。
馬の額の白斑は星という名が付いているらしく、松陰はいたく気に入っていた。馬の体長は松陰よりも少し小さいぐらいだが、松陰が目にしたことのある動物の中では最大だ。また、跨って背に乗ると空は近くとも大地と離れたという実感は無い。
人馬一体と言う言葉が身に染みた瞬間だった。
後方から蹄の音がして、黒いテンガロンハットを被った如何にも西部の無法者らしいビリー・ザ・キッドが栗毛の馬に跨り、人懐こい笑みを松陰に向ける。
「大分慣れてきたね」
「ええ。こちらの馬は素晴らしい。日の本の馬よりも身体も大きく頑丈で速い」
「土地の広さが違うからね。荒野を駆けるにはそういう馬しか生き残れないのさ」
ビリーは弓兵クラスだが、生前の逸話から騎乗スキルを持っているため、松陰はシミュレーター内で乗馬を教わっていた。折角だから、と環境設定はビリーが生きた西武開拓時代を再現している。
元々接点の無い二人ではあるが、松陰が召喚されたまだ日が浅い頃、図書館の蔵書に目を輝かせ寝食を忘れて通い詰めていた。
そこで、少年悪漢王と呼ばれた伝説のガンマンが図書館の隅で黙々と読書する姿を何度か見かけていた。食堂で賭博好きの面々と札遊びに興じる姿しか見たこと無かったので、少し驚いたものだった。後で聞いた話だが、彼は当時の生まれ育った環境では珍しいほど高い教養を受けていたとのことだ。
ある日、本棚の前で二人は鉢合わせた。まるで少年のような体躯のビリーは長身の松陰を見上げ、口元だけ笑みの形を作った。
『やあ、学者先生。君はいつも本を読んでいるけど、どんな本を読んでいるんだい?』
『本棚の端から一冊ずつ読んでいます。あと、僕は君に師事した覚えはないので、先生とは呼ばず吉田でも松陰でも好きな方で呼んで下さい』
松陰は手に持っている「世界のかわいい刺繍図鑑」を見せると、ビリーはきょとんとし、何がそんなに可笑しかったのか私語を慎んでと書かれた貼紙を背に身体を折り曲げて声もなく笑い転げた。
それから、自分が死んだ年に生まれたというはみ出し者と時折交流するようになった。
松陰は、ふと、幻とはいえ故郷から遠く離れた見果てぬ大地を眺めて、夢想する。
「僕の時代にこのような馬がいたら、人との交流も物流も大きく変化したでしょう。騎馬武者は廃れていましたが、数さえ揃えれば戦の有り様が一変する。いや、それよりも情報伝達の差が」
独り言のように呟くと、ビリーが口元を弓なりにする。
「ショーインはさ、そういうの多いね。たら、とか、れば、とか」
松陰は、彼の人懐こい笑顔が鉄仮面の代わりだと早々に気付いていた。
「そうですね。そうかも知れません」
「僕なんか魔力の弾丸って装填の手間が無くて便利だな〜ぐらいしか思わないけど、ショーインは国の偉い人に殺されたんだろ? やっぱ、聖杯にかける願いも歴史改変?」
「さぁ、どうでしょう」
わざと濁し、身体を起こして脚で合図すれば、青鹿毛の馬が走り出す。ビリーは声を上げて笑って、同じように跨った馬を走らせる。
志も矜持も何も無く、虚偽も詐欺も躊躇い無く、生きるだけでも難しいこの乾いた大地で拳銃だけを胸に生き抜いた無法者。
その渇きが、今は心地良かった。
血も涙も瞬きの間に乾いて跡形も残さぬ大地。
それでも無かった事にはならず、忘れたことさえ無い。今も地平線に沈みかける鮮烈に燃える美しい夕陽を見て、松陰は想うのだ。
あの焔を宿した怒りに満ちた瞳を。
自分のために躊躇いなく舌を噛み切ろうとした姿を。
間違いなく脳裏を過ったのは失いかけた虚な瞳。沈みかけた夕陽。泡となって霧散する、
嘔吐と嗚咽が込み上げ、みっともなく懇願した。
それさえ許されなかったあの時に比べれば、なんと安い駄賃だろう。
失いたくない。
失いたくない。
君が大事だ。手を離したくない。こんなに自分の価値を下に見たことは無い。なぜなら、僕は君に。
僕は、君に。
——ぷつんと落ちる電源。途切れる思考。手の指の隙間から溢れ落ちる想い。
どうしても君を失いたくなかったという理由さえ君に取り零すことなく伝えることさえ出来れば、きっと、あんな言い方をしなくても済んだのに。
後悔だけが胸にある。痛みだけが言葉を失くす。
償いではないと言い切れなかった自身の愚かさにのたうち回る。灼熱に曝け出されて顔が歪む。傷跡もない首がぱっくりと割れたかのような痛みに松陰は頭を振った。
痛みを感じているのは、自分では、ない。
業火に焚べ続けるこの身を拒絶した教え子の瞳を想い出す。離れてしまった手を、もう一度繋ぎ直すためだけの勇敢さは崖から滑り落ちてしまった。
何を見ても想い出すのは愛し子の事ばかりで、頬を撫でる乾いた風はあの日の雨を吹き飛ばしはしなかった。
並走していたビリーが、物思いに耽っていた松陰の横顔に向けて人の悪い笑みを浮かべた。
「それでさぁ、シンサクとは仲直りした?」
「……見苦しいところ」
読心術でも心得ているのか、ビリーは松陰の心中を的確に言い当てる。基本的に藤丸以外に興味を示さない彼がそういった節介を焼くのは珍しく、もしかしたら岩肌のある洞窟で言い合いを聞いてしまった藤丸から何か言われているのかも知れなかった。
ふと、松陰はビリーに言い忘れていたことを思い出し、手綱を引いて馬の歩を緩めると、同じようにビリーも手綱を引いて向かい合う。
「君のおかげで晋作は僕の首を落とさずに済んだ。礼を言います、ビリー」
「どういたしまして。シンサクにも似たような事を言われたよ。これ惚気? 次やったら金取るよ?」
呆れたような言い草でビリーが肩を竦め、松陰は燦々と降り注ぐ太陽の熱ではない頬の赤らみに恥じ入った。
あれ以来、晋作とは顔を合わしていない。かける言葉が一つも見つからないからだ。
それでも、晋作はビリーに言ったのだろう。君のおかげで先生は首を落とさずに済んだ、と。
ビリーがやれやれと肩を竦めて舌を吐く。
「自分のために大事な奴を死なせたくなかったっていう、
「自分のため」
思わず、松陰が目を丸くする。
自分のため。思いがけない言葉は松陰の胸に何故かすとんと収まった。志のために生き抜いた。夢のために邁進した。我欲ではあったかも知れないが、確かにそれは利他と呼ばれるものだった。
けれどもビリーの『自分のため』と言う言葉はもっと、乾いた大地を生きるためだけの、無知な子供が夢描くようなごく当たり前の響きを持っていた。
「えぇ〜? そこから? 国のため民のためって思考が強過ぎて頭おかしくなっちゃった? あ、バーサーカーか」
「……君は母親のために人を殺したのでは?」
「ショーイン。君がシンサクと喧嘩する理由が分かったよ」
「そういう物言いは馴染みがありません」
「こういう物言いじゃないと相手の頭にカッと血が上って眉間を撃ち抜かれるのさ。覚えとくといい」
「君の言い方にも問題あるかと思いますが」
「僕はいいのさ。なんせ僕の方が速いんだから。のろまな正直者は馬鹿を見るって、君の国もそうだろ?」
「耳に痛いですね」
松陰は苦笑した。
地平線を見る。人権も尊厳も守られず、胸中にあるべき志も矜持もなく、風の気紛れで眉間に穴が開く殺伐とした無法地帯。個が群れを為さなければ生きてゆけない自分の国では到底考えられない、どこまでも孤独の世界。
ただ、それでも。
「少年悪漢王。法無き秩序を築いた民無き王。……君はそう呼ばれるのを嫌うでしょうが、この果てない大地を駆ける生き方に憧れが無いと言ったら嘘になります」
狭い世界を抜け、夢見た外の世界。
黒船の帰る先は確か英国だったけれども、日の本の大地しか知らぬ自分にとっては全てが外の世界だ。
そこで生きることが出来たのなら。家族も兄弟も捨て、志も矜持もなく、立ちはだかるもの全てを薙ぎ倒し、生きるためだけに生きることが出来たのなら。
仲間も教え子も捨て、しがらみも人の嘆きも捨て、夢も道も何もかもを放り投げて。
松陰は顔を上げた。地平線の向こうには、きっと、故郷がある。
「———けれど、僕はそれを選ばない。僕は自分のためだけに誰かを巻き込むのを良しとすることは出来ない」
選べないのではなく、選ばない。例え荷物を放り出しても、何度でも拾うために歩くだろう。
『誰か』ではなく、いつだって眼に映るのは孤独を駆け抜けた教え子。
自分のために失いたく無かったという傲慢で意地汚くて身勝手な我欲に巻き込んだ。
それは赦されざる罪で、松陰はあの時、晋作の断絶に安堵さえ覚えたのだ。そうだ、君は怒っていいと。
身体を、想いを、何もかもを繋げても溶け合わぬものが確かにある。踏み抜いてはならぬ心を土足で踏み荒らしたのは自分だ。
怒っていい。恨んでいい。
畳で死ぬしかなかった最期をいつまでも恥じている君の死に方さえ奪ったのは他でもない自分だ。だからこれは、気高い尊厳を犯されただけの話で。
自分は、それに見合う言葉を持たなかっただけの話で。
足りぬばかりで奪うばかり。
僅かに声を震わせた松陰に、ビリーは笑うのをやめた。
「……君の在り方だ。誰も文句は言わないさ。ただ、僕らは英霊だ。影法師だ。この旅に終わりはある。終わらせなくちゃいけない」
ビリーが唯一友と呼ぶ若者を、日常に帰さなければならない。そこに何もなくても、誰もいなくても、例え今を生きる若者自身が誰よりもそれを信じられなくても。
そのためだけに、終えるため、仮初の命を惜しみなく差し出す英霊がいる。
帰るべき日常に兵器は必要無いのだから。
だが、それでも、とビリーは茶化すような陽気さで笑う。
「僕は僕の思うまま、生きた。英霊なんてそんなもんさ。後悔はない。——幸福とは、程遠かったとしても」
ビリーは沈まぬ夕陽を背に、テンガロンハットに手をかけて、松陰を振り返った。
「第二の生だ。
それは幕切れには早過ぎた男の相応しくて不釣り合いで何とも皮肉の効いた言葉。
松陰は夕陽を見た。何もかもまやかしで現実では無い仮初の太陽。確かに首を刎ねられて生を終えた影法師が生きる世界。けれども胸に去来する想いだけは間違えようもなく本物で。
最後に幸せを感じたのはいつだっただろうか。
足跡が掻き消されるほど、随分と遠くに来てしまったような気がする。
自分は聖杯に願うのだろうか。何を願うのだろうか。
処刑前夜に聖杯を差し出されたら、自分はそれに手を伸ばすのだろうか。
少なくとも、今の自分は歴史改変のために聖杯を欲することは無いだろう。例え死ぬと分かっていも、あの時の覚悟を無かったことにはしたくないのだから。
消せない、消えない、消したくない覚悟。
失わせない、失えない、失いたくなかった。
嗚呼、そうだ。
暁に届かぬ夕空が消えかけの宵の明星を押隠した。英霊となって再会を果たした教え子の瞳に、自分が見ることの無かった明日を見た。自分が死んだ後の歴史を知って、そう、残酷だと思ったのだ。
君は幸せだったのだろうかと、傲慢にも。
あの時、振りかざしたのは。失ってたまるかと眼から零れ落ちるものさえ認めなかったのは、目を背けたくなるほど自分のためだったからだ。
あの時、振りかざしたのは。
失いたくなかった。何故なら、僕は、君に。
教え子の尊厳を無視して内臓に肉杭を突き立てて犯した。雨と血の匂いが混じって吐気を催し、現実味が無いほどの膨大な血は潰れた果実のように手にへばり付いた。何の温度も感じないのに粘膜を擦る肉の感触だけが脳を食い荒らした。
松陰は思わず手で顔を覆った。
それでも犯すのを止められなかった。止めるわけにはいかなかった。君を救うために、君を失わないために。
何故なら、僕は、君に。
———僕はまだ、君に何もしてやれていない!
それを願いと呼ぶには、ひどく胸が痛んだ。
あまりにも身勝手で滑稽で、これ以上ない情けなさに恥じ入って死にたくなるほどの自分のエゴ。身勝手過ぎるその叫びは、瞳から零れ落ちて誰にも拾い上げられぬまま放置されていた。
目に余る驕りに歯を食い縛る。何もしてやれてないなどと、夢も理想も無い後悔は犬にでもくれてやるべきだった。命を燃やし尽くして生き抜いた教え子に対する侮辱に他ならない。
何もしてやれていない。
何もしてやれていないのに。
顔を覆った手を放す。松陰は夕陽を見た。
何を見ても想い出す。名を呼べば振り返る愛し子。紅梅色の髪から覗く紅い瞳が綺羅星のように煌めき、自分の姿を見ては幸福を惜しむように微笑む。
呼べないと思っていた名をもう一度呼ばせてくれて、自分の覚悟を大したことじゃないと笑わず、何をされても恋してると言ってくれた。
僕が君に降り注いで積もらせたかったのに、いつの間にか、君が僕にありったけの想いを降り注いで積もらせてくれていた。
この胸に積もり重なったものは、万の言の葉でもなく、繋げた熱の欲でもなく、ただ、ただただ、他者から見れば物悲しさを覚えるほど、一途に懸命に真っ直ぐに、身体も心も赦しも開け渡して、無様にもこの頬に伝うものを拭ってくれた君の手のぬくもりだった。
薄汚くて穢らわしいものを、誰にも顔向け出来ないものを、君が胸を張れる恋にしてくれたのだ。
ようやく聞こえた自分の声。
やっと気付いた君への恋。
松陰は衝動のままにシミュレーターから飛び出し、まるでつい先ほど跨っていた馬のようにカルデア内を疾走し、共用部を覗き込んでは春の魁に咲く梅色の幻を探した。
早鐘を打つ心臓が息急く。雪風巻の中で足を前に進めているように身震いするが、身体の芯は熱を保っている。
ようやく聞こえた願い。やっと気付いた積もったもの。
賑わいのある食堂に駆け込む。大柄な身体を持つ松陰の形振り構わぬ様子に食堂にいた誰かがぎょっとした様子で怯むが、松陰の目には入らない。
いた。
今、この目に映すのは、あの日確かに何も出来ぬまま失いかけた、この身を焦がす常春の化身。
松陰は整わぬ息のまま足をそちらに向けた。
食堂の椅子に座っている晋作は、向かいにいるヘクトールと佐々木小次郎と何か話している様子だったが、すぐにヘクトールが松陰に気付き、顎で指し示す。
晋作がこちらを見て、驚愕に眼を見開き、紅い瞳が困惑に錯綜する。松陰は意に介せず大股で晋作の元へと向かう。
行動にも表情にも躊躇いを見せない松陰に、晋作の腰が僅かに引けるが、持ち前の負けん気で松陰を見上げて睨んだ。
「な、何ですか。言っておきますが、僕は絶対にあやま」
「晋作」
名を呼ぶ。
「……ッ」
名を呼べば口を閉ざすのは、いつの時代も変わらなかった。変わらないものもあるだろう。少なくとも、生前、自分は言葉に成らぬ感情など持ち合わせたことは無かった。
けれど今は、形として言葉として何よりの証として、示さなければならないものがある。
不審か不安か、眉間に眉を寄せて何か耐えるかのように口元を結んでいる晋作に、松陰はその場で跪いた。
泣き腫らしたような赤い瞳を見上げ、松陰は僅かに震えている晋作の手を取った。
「僕は、君の人生に報いたい」
片膝をついた状態で松陰は迷うことなく言葉にした。ようやく聞こえた。やっと気付いた。ただ一つの愛の証立て。
「僕が死んだ後も僕の志を引き継いで、戦で友や仲間に死なれても、君が如何にそれを後悔し、悔やみ、悲しんでも。君は歩みを止めなかった。時代の幕開け前に病魔に侵され、畳で死ぬことを恥じても、それでも、君は懸命に生きて生きて生き抜いた。そんな君に、僕が出来るのは誇りに想うことだけじゃない。僕は君に報われてほしい。……僕は、君に何もしてやれなかったから」
自分はもう報われてしまった。死後の記憶を得て、例え夢見た理想とは違っても、あまりにも多くのものが犠牲になっていたとしても、君達が、君が、この手の届かぬ彼方まで、この足が踏めぬ頂きまで、命を賭けて駆け抜けてくれたから。
晋作の冷えた手の甲を撫で、松陰は自身の口元にその手を寄せる。
「償いではなく報いを。君を愛してる」
ようやく言えた。やっと示せた。
松陰は煌めく赫い星を細め、胸に抱くものと寸分違わぬ言の葉が形と成したことに満足げに微笑んだ。
伝わらぬのなら、幾度でも。信じられぬのなら、泡となるまで。君が笑ってさえくれるのなら、全てが塵芥だ。
松陰が握った晋作の強張った手からはゆるゆると力が抜け、だんだんと汗ばむような熱を帯び始めた。
見れば晋作の口元は何とも言えぬ奇妙な形で歪み閉じ、縮こまった肩は耐え難いものを耐えているかのように震え、羞恥の色の染まり上がった顔面からは汗が滲み出ている。
艶やかな紅梅色の髪からは沸騰した湯煙に似た何かが昇り、晋作は戦慄く喉から絞り出すような声を上げた。
「こ——此処で言うことじゃ無いでしょう……ッ!」
正論過ぎる正論。松陰は眼をぱちぱちと瞬かせ、晋作は不明瞭な呻き声を発した後、松陰の手を強く握り返して立ち上がって転がるようにその場から駆け出した。二人、手を繋いだまま駆け足で食堂を後にする。
椅子が音を立てて倒れ、残されたヘクトールは「ほらな」と言うまでも無いと肩を竦め、小次郎は「悲喜交々至るでござるな」と眼を伏せて口元を僅かに綻ばせた。
◇ ◆ ◇
ささくれ立って骨太の手の平は晋作の華奢な手に比べれば余りあるものだったが、晋作には最早そんな些細な事を気にする余裕は宙の彼方へと飛んでいった。
晋作は灼熱よりも熱を持った顔で床を睨みながら、松陰の手を無理やり引っ張って食堂を後にする。ちょうど食堂の入口でビリー・ザ・キッドと藤丸を見かけ、何故かはわわしている藤丸とは対照にビリーは自分ではなく松陰の方に向けて真顔で親指を立てていた。
八つ当たりのように胸中で罵り、その怒りを松陰にぶつけようと思った。
なんで避けてたんですか、何で怒ってくれなかったんですか、呆れましたか。嫌になりましたか。
なんで否定してくれなかったんですか、なんでいつも先に死にたがるんですか。
本当にちゃんと僕のこと好きですか。
晋作はストームボーダーの廊下で足を止め、松陰の方へと勢い良く振り返った。廊下の片側は透明の特殊構造の硝子張りで、雲の上を巡る船の廊下は日差しで常に明るい。
振り返った先で、晋作の眼に陽の光を浴びて黒瑪瑙のような黒髪が映る。端正な彫りの深い顔立ちに野暮な眼鏡。
その奥に見える、日輪の輝きを易々と上回り、自分にとっては見間違えようのないただひとつ、ただ唯一の烈火の如き赫い星が、雷火となって脳天に堕ちる。
恋をした。もうしてるのに、もう一度灼かれてしまった。
胸が、喉が、何もかもが身体中を詰まらせて芯から膨れ上がるもので破裂してしまいそうだ。先ほどの松陰の言の葉が血の代わりに身体中を駆け巡り、どうしようもない熱が顔面に朱を注ぐ。
師の必死な眼差し。懇願のようなそれは決して命乞いでは無く、歯に衣着せぬ真摯な決意が瞳の星を一際煌めかせた。
何があっても眼を逸さぬこの人が好きだ。
それだけで良かった。その眼に映る自分が、どうかこの人の胸を痛ませるものではありませんようにと、それだけを願った。
それだけで良かった筈なのに、愛されたいと欲張った心が曇らせた。全てを脅かす赤い血が逆上させた。それなのに、それでも、この人はずっと考え続けてくれたのだろう。自分の拒絶を、怒りを。
だって、
これが全てで、
これが答えだ。
「晋作」
「は——はいっ」
ほぼ条件反射で答えると思わず背筋が伸びた。向き合って、片手だけ繋いだ手に力が込められ、晋作はその熱さに胸中で奇怪な悲鳴を上げた。駄目だ、これ以上見つめられたら、あれ以上言葉を紡げられたら、原形が留められなくなる。
松陰は目尻を下げて柔らかく微笑んだ。
「君がどんな目に遭っても僕は必ず君を救い出す。僕はあの時、そう言えば良かった。君を失いかけた事を思い出して、我を忘れて君を傷つけてしまった」
酷い言葉を。と松陰は謝罪を口にする。それを聞いて、晋作は愕然とした。目の奥がじわりと熱を持って酷く痛む。先生が、謝ることなんて、最初から一つも。
一つもないのに、この人はずっと謝り続けていた。過ちを腑の底に湛えたまま誰にも晒さず、ひたらすに向き合い続けていた。それなのに自分は言いたかった筈の言葉を呑み込んで、言っていけない言葉を吐き出した。
「ご、ごめ、ごめん、なさい」
「晋作?」
「頼んでないなんて、一番言っちゃいけない言葉だった。で、でも僕は、先生を犠牲にしてまで生きたくない。あんな顔、二度とさせたくない。あんな想い、二度とさせたくない。させるぐらいなら、ぼ、僕が、死んだ方が、マシだ」
死にたがりは自分の方でした。と晋作はしゃくり上げながら謝罪を口にした。込み上げたままの激情はそのまま大粒の涙となって晋作の頬を濡らす。
松陰は片手で晋作の頭を引き寄せ、顔を隠すように自身の肩に押し当てた。
「……今もそう思ってますか?」
「思って、ません。僕が死んだ方が、先生は悲しむ」
「今も、僕が君に差し出したものは、負い目からだと思ってますか?」
「思ってません。先生が償いじゃないと言うなら、僕はそれを信じる」
「………………良かった」
心の底からの安堵の溜息が聞こえて、松陰はぐっと力強く晋作の身体を抱きしめた。晋作は松陰の背中に腕を回して、涙に濡れた声で恐る恐る訊ねる。
「先生。あんな酷い事を言った僕を、許してくれますか?」
「……許すも何も」
松陰が肩口にある晋作の髪に口元を寄せて、花開くようなあたたかな声音で続ける。
「尊厳を犯した僕への君の怒りは正当なものだ。けれども、君に何を言われても、君に何をされても、君への気持ちが削られることは決して無い」
何度も幾度も伝えてくれたその言葉を、どこか信じられないでいた。頭の片隅で、負い目があるからだと、不純物があるからだと、決めつけていた。
間違いだらけで正しさを見失ってばかりだった。けれども償いではないと言葉にして伝えてくれたから。
本当は、それだけで自分の人生はとっくに報われているようなものだけれど、この人が捧げてくれた献身さが飛び上がるほどに嬉しいので。
晋作は松陰の肩に額を擦り付けて、口を開く。ずっと言いたかったけれども、その言葉を受け取る資格はないと拒絶し続けてきたこの人に、ようやく言える。
それは呪いを解く唯一の言葉。
「先生。僕を助けてくれて、ありがとうございました」
松陰が声を呑む気配がした。そうして、震えるような静寂が落ちて、松陰が更に晋作の身体を強く強く抱きしめるので、晋作は背が沿って足裏に力を入れて踏ん張らなければならなくなった。
息を許さぬほどの強さで晋作は抱き竦める松陰は、その肩口に顔を埋めて、咽ぶ声音で返した。
「助かって、くれて、ありがとう」
繋いだ手は、決して離さなかった。
僕は、僕の運命を歩く。
晴れの日は笑いあって、曇りの日は空を見上げて、雨の日は肩を寄り添って、風の日は両足で踏ん張って、雪の日は温もりを求めて、嵐の日は立ち向かって。
僕は、僕達の足跡を残す。
笑顔になるための幸せは、確かに此処にあるのだから。
舌で飴玉を転がすような口付けをする。舌先で相手の舌を絡め取り、這うようになぞればお返しとばかりに相手の舌にまた絡め取られる。
どちらの舌か分からぬほど口内で貪り合えば、濡れた粘着音が耳に反響する。
「あっ♡ん、ん…っ、ふは、♡」
晋作の私室のベッドで初めてまぐわった時のように一糸纏わぬ姿になって、晋作は覆い被さった松陰の首に腕を回して、舌を、息を、何も逃さぬように必死に喰らい付く。
舌だけのまぐわいなのに、下半身はすでに甘い熱を帯びて中心はそそり勃っている。
久しぶりの情交だった。はしたない話だが、晋作はもっと松陰と身体を重ねたかったが、強請れば決して首を横に振らない松陰との関係性が不純なものに思えて、晋作こそが引け目を感じていた。
だからこそ、慣れてくれれば、もっと自分を見てくれれば、多少なりとも払拭出来るかもしれないと浅はかで幼稚な考えを実行し、更に松陰を傷つけてしまった。
介錯される心情で松陰の私室に赴いたのに、何が松陰の琴線に触れたのか今でも分からないが、直情直線豪速球の『君を抱きたい』という火の玉に灼かれて灰になるところだった。
立ったまま背後から、というのは初めてだったが晋作は早々に後悔した。産まれたての小動物だってもう少し立てるだろうというほど、両の足が全く言う事を聞かず、自分が二足歩行の獣だと忘れかけた。
せめて膝だけでもつかせて欲しかったのに、何故か、本当に何故か、腕を後方に引っ張られた。
支えとは程遠い不安定さ。腕を引っ張られて肉杭を押し付けられて、快楽はどこにも流せず逃がせず身体の中を渦巻き、脳で悦楽を享受するだけの永久機関と化した。
表情も声も気にする余裕など天の果てまで飛ばされ、終わりなど見えない快楽にひぃひぃと泣くことしか出来なかった。
それに比べれば、正面から抱かれることに安堵を覚える。いや、先生が望むならどんな体位でもやぶさかでは無いが。
「あ、あっ♡せんせ…♡」
開いた足の間に身体を割り込ませてかがみ込んだ松陰が、晋作の腹をれろりと撫でる。見下ろせば豊かな伏せた睫毛と艶かしい舌が腹筋の割れ目をなぞるように踊って、晋作はひいぃと目の毒を凝視する。
前回、耳の中を舐められてからどうにも松陰に舐め癖がついたように思える。舐められると擽ったさも確かにあるのだが、快楽で脳を灼く一歩手前のもどかしさが、奥歯を緩ませて喉と舌を震わせるのを止められない。
「ひあ、ああぁっ♡んうあっ、あん、んぁあぁああっ♡」
唾液混じりの甘ったるい声に、どうしても羞恥を感じて目尻に涙が溜まる。腹を舐められながら太腿の内側を手で摩られ、一度も触れられず勃ち上がった陰茎の先端が、松陰の身体を擦って得られた快楽に打ち震える。
そうして、陰茎に手が添えられるのを期待して浅ましく腰をゆらめかす。なのに、脳に届いたのは無骨な指の感触ではなく、先程まで腹を嬲っていた舌の感触だった。
「——ッ! まっ、〜〜——ッ!♡♡♡」
咄嗟に片手で口を抑える。信じられない、信じたくない、とろ火のような快楽は紛れもなく自身の陰茎を口に咥えて舐め上げている松陰の舌からだった。
「せ、せんっ、! まっ、はな、はなし…ッ、んあっ♡」
「ん、んむ」
唇で喰まれ、擦り上げられた。口淫など初めてだろうに一切の躊躇の無い艶かしい舌の動きに晋作は半狂乱に陥る。
口を抑えた手とは反対側の手で松陰の黒髪を掴むが、どちらの手も中途半端にしか力が入らず、制止の意味も成さなかった。
雁首を舌先で突かれ、無骨な指は袋を弄ぶ。先走りで苦味があるだろうに、真剣そのものの顔で晋作の陰茎を大きな口で根本までずっぽりと咥える師。その姿を見下ろして、晋作はあまりの恥ずかしさに顔を真っ赤に染め上げた。
「せん、せぇっ、! あッ♡やだ、それ、…ッ、ほんと、だめっ…ッ、♡やっ、や…ッ♡おねがっ…、くち、はなし、てぇ…っ♡」
初めての拒絶は何処にも届かず哀れな泡となって消え、晋作は頬に焼けるような熱さを感じながらぐすぐすと本気の涙を流した。
高潔で堅物ですぐに手が出るような暴力性も持ち合わせているのに、色事に関してはとことこん無知で純真な、あの吉田松陰にこんな淫棒を咥えさせているという卑猥な事実に今すぐ慚死したい。
何より、今すぐに達してしまいそうなほど快楽を拾っているという生き恥に髪を振り乱す。れろれろと太い舌が淫棒を這うだけで後孔の奥が疼いて空虚を締め付けた。
「ぅ〜〜ッ♡だ、だめだめっ、くち、に…ッ、で、ちゃ、♡でちゃう…ッ、から…ッ♡! は、はなして…ッ♡せんせぇっ、や、だっ♡、ッやだやだぁ♡やらぁッ♡あ、あッ、もっ、♡はな、ッ〜〜ッ♡♡♡」
久方ぶりの射精は容赦なく松陰の口内で行われた。目の前で火花が散って享楽に殴られた脳内は一瞬で真っ白になり、我知らずの内に腰を突き出してしまう。
松陰が精道に残った精液さえもじゅるりと音を立てて吸ってからようやく口を離す。その音を頭の片隅で聞いて、絶頂でぼんやりとした意識を晋作は慌てて叩き起こし、がばりと上半身を起こした。
だがすでに時遅し、松陰の喉仏がこくんと上下する。
「——の、飲んだんですかッ⁉︎」
「……? 君、いつも僕のを飲んでるでしょう」
「僕が先生のを飲むのはご褒美だから良いんですよ! 早く! 出して‼︎」
「そこまで美味なものとは思いませんが……。君、自分は良くて人にさせるのは駄目だというのは少しいただけませんね」
「こんな時に子供扱いしないで下さいよ!」
「子供にこんなことするわけないでしょう」
呆れたように松陰が言う。紅顔が治まらぬ晋作を見て、松陰は口の端を持ち上げて笑った。
「可愛い子扱いしているんです」
珍しい不適な笑みに、晋作はぼんっと頭から湯気を出してまた恋に堕ちる。心臓の早鐘はとっくに基準値を超過していて、そろそろ苦情が来そうだ。
自分ばかりが翻弄されている気がして、晋作は面白くない気分のまま松陰の頭部をガッと手で掴んでその唇に噛み付いた。
「ん、む、むぅ♡」
舌を差し入れて、松陰の口内に残った自身の精液を舌で舐め取るように蠢かす。松陰の唇が笑うかのように弧を描いたのを感じて、晋作はムキになって松陰の口内で舌を舐め回した。
独特の精液の味わいが舌に広がり、本当についさっきまでこの大きな口の中に自分のものが咥えられていたのだと実感してしまい、あられも無い熱が下半身に響いた。
そのまま飽きる気配も見せずにぴちゃぴちゃと濡れた音をさせながら舌を絡める。最早精液の名残りは遠く、ただ互いの分泌止まぬ唾液を混ぜ合わせ、舌の裏に溜める。
「ん、んぐっ♡ぷ、は、…っ、ん、んくっ♡」
「ほら、晋作。飲んで」
松陰の肉厚な舌で上顎を舐められれば堪らず顎が上がり、混ぜ合った唾液が喉奥に流し込まれる。神聖さを思わせる背徳感に背骨が仰け反り、歓喜の喘ぎも喉奥に消える。
ベッドの上で互いに上半身を起こしたまま向き合い、濃厚な口付けを交わし、舌の肉を噛む。松陰の手が晋作の細腰を撫でれば、ひくんと舌が喜んで唾液を分泌させる。晋作は唇を離さぬまま、膝をついたまま淫らに強請るように腰を突き出す。
「あ、んっ♡んあ、ぁあふッ♡あ、せん、んん゛ッ、せ、♡んむぅぅッ♡」
また松陰が笑った気配がして、晋作は男狂いのような真似事にさっと顔を赤らめたが、今更かとも思う。けれど身体を繋げるこの行為がどうしても好きなのだ。
肉杭が埋められた瞬間、瞳の星がまるで雲に隠れた雷光のような赫灼をはらむ。それは常に溢れるような慈愛ではなく、もっと傲慢で狂暴さを秘めた濁った欲の色。
それを見るのが堪らなく好きだった。
身体を暴かれているのにこちらが暴いているかのような錯覚に血管が焼き切れそうなほど興奮する。
それはきっと、誰も見たことがない自分のためだけの星。身体を繋いだ時だけ灯される焔。
松陰の首に腕を回した晋作は更に舌を深く入れ、舌の境目が分からなくなるほど貪った。
「あっ♡ん…っ! う゛あ、ぅ…っ♡! んんッ、ん、ぁんっ♡あむ♡んぶ♡」
「晋作。指、入れますよ」
「はぁ、い゛、ぃ…ッ♡あ、あッ、んあ゛ッあ゛ぁ〜ッ♡♡ ふ、ぁ…あッ♡ん゛、あ゛ッ♡⁉︎」
潤滑剤をつけた松陰の指が後孔に入れられ、思わず嬌声が上がるがすぐに交わしたままの口で舌を吸われ、喉が快楽に戦慄く。
舌を甘噛みされ、指が淫孔を押し広げるように擦られる。自身で解さないように厳命されているのでまだ圧迫感が強いのに、きゅうきゅうと肉襞が勝手に締め付けて指の形も動きも明確に感じ取ってしまい、妄りがましさに涙が頬を伝う。
「ひあッ♡あむ、ッ♡あぁあ…ッ♡せぇん、ひぇ…ッ♡いきッ♡でき、な…ッッん゛ん゛ん〜〜〜ッ♡♡♡」
くの字に曲げた指の腹が引くつく後孔のしこりを叩く。甘噛みされた舌ではろくに満足に喘げず、発散出来ない快楽はひんひんと鼻を鳴らす。
舌で蹂躙しながら指でも蹂躙するのがお気に召したのか、上も下も解放されずに晋作はただ腰を揺らして快感が電流のように手足を痺れさせるのを受け止めることしか出来ない。
「あ゛ぁ〜〜ッッ♡♡ひゃ、めぇ…ッ♡ゆびゆびッ♡あんッ♡せんせぇ、の、ゆび…ッ♡きもち、いッ♡だめぇ♡あ、あッ♡」
「嬉しいな。君をこんなに喜ばせることが出来て」
松陰の昂った声音に下胎がきゅうと収縮して享楽が脳を揺さぶる。快楽を拾うことに慣れた身体は犬のように腰を揺らせ、後孔の快楽の芽に松陰の指を擦りつけてしまい、ひい♡と目の奥に快楽が飛ぶ。
太腿ががくがくと震え、快感に耐え切れず腰を落とせば新たに二本入った指を根本まで迎え入れてしまい、まるで太い肉棒を突き刺されたかのような衝撃と気持ち良さに陰茎からは指の動きに合わせて白濁の汁が噴き出る。
「あぁ゛っ、あ、っ♡ひあっ、♡ん、ん゛っ、これ、っ♡だめ、ぇ…♡ま゛ッ、あ♡こんな、ぁ♡や、♡っ、やらっ♡はず、か…し…っ♡あ、あ゛っ、あんっ、んあっ♡」
「恥ずかしい?」
「は、ずかしぃ、い…ッッ♡♡みな、みない、でぇ…ッ♡あ、あ゛んぁッ♡♡あ゛、んんッ♡」
なけなしの力で腰が落ちぬように下胎に力を入れれば指を締め付け、また快感に腰がずちゅんと落ちる。それを繰り返せばただの自慰行為で、あまりの淫らさに恥を知る獣が泣きじゃくる。
何度達したか分からぬほど後孔を必要以上に解され、蹂躙尽くした指が抜かれ、蛞蝓じみた舌も解放される。乱れに乱れた身体は紅葉のように色鮮やかに染まり、開いた紅い肉襞は更なる刺激を求めて怪しげに蠢く。
「あ……ッ♡はぁ……」
「ん、晋作。抱き上げますよ」
松陰は快楽にゆらゆらと揺れる晋作の身体を抱き上げ、ベッドに仰向けに寝かせる。松陰が晋作の膝裏を掴んで足を左右に広げさせれば、その行為にさえ感じ入った晋作が弱々しい嬌声をあげる。
これだけ快楽に脳を揺さぶられても、もっともっと、と汗ばんだ四肢がくねる。足りない足りない、と蕩けた紅玉の瞳が強請る。
何処もかしこもとろんだ肉に、松陰は喉仏を上下させ、情欲に耐えた眉間を携える。
反り上がった熱塊を健気さを体現したかのような素直に開いた後孔にぐちゅんっと埋めた。
泥のような肉孔はずぷずぷと喜んで迎え入れ、肉杭が我が物顔で肉襞を上下左右に押し広げた。
「っせん、せえっ♡せんせっ♡せん、あっ、んあ、せぇ、っ♡せんせぇッ♡」
いつもこの瞬間は、他では味わえない蹂躙に脳が茹で上がり腫れ上がる。後孔から突き刺された怒張の太さも長さも全身で味わい尽くし、それが愛しい人の快楽の塊だと思うとそれだけで達してしまう。
硬い肉棒が根本まで埋め込まれ、最初はゆらゆらと腰を動かし、膨れた前立腺を亀頭部で口付けするかのようにくちゅんと押し付ける。
「く…ッ、うご、き、ますよ」
「ひゃ、ひゃい゛ッ♡——あ゛ぁッ♡♡♡ふぁ、あ゛あっ♡あぁッ♡んあ゛、っ♡ひ、ん゛ッ♡! ——ッ♡あっ♡あ゛ぁ゛ッッん♡♡! く、っん、ぁ、あぁ゛っ♡」
馬鹿みたいに泣いて喘いで、下胎の切ない疼きのまま太腿の付け根を松陰の股間に押し付けて、もっと、と婀娜めく。晋作の陰茎の先からは精液にしては透明な汁が溢れ、突かれる度に下胎を汚していく。
松陰の長い指でも届かぬ奥に肉杭がごちゅんと殴打したかと思えば、蠢く肉襞を引き摺り出すようにぬちゅぬちゅと引き抜かれる。
「あ゛あ゛ぁッ♡! せん゛せッ♡ぬい゛、ちゃ♡やら゛ぁ♡おくっ♡おくが、いいッ♡——あ゛ッ♡! あひ、ッ♡ひあ゛♡あ、あっ、あ゛っ♡」
「……ッ」
引き抜かれた肉杭が晋作の望み通りに奥を抉れば、肉襞は歓喜に収縮して締め付け、松陰が耐え切れぬように口の端から声を漏らす。
それが愛しくてたまらなくて、晋作は剥がれた理性のまま涎を垂らして善がって、下胎に肉杭が抽送される様を花開いた瞳に焼き付ける。
卑猥な肉。淫らな欲。獣みたいな交尾なのに快楽を上回る多幸感こそが恥を忘れさせる。
更に松陰の腰がぐっと深く押しつけられ、先端が奥の更に奥を突く。未だ暴かれたことのない其処に、松陰の肉棒が触れた事を後孔がじんと熱を持って教える。
晋作が喉を引いてあえかな悲鳴を上げれば、松陰が動きを止める。晋作は滲む視界の中で松陰の姿を探した。
本当は、もっと奥まで暴いていい。
恐怖も躊躇もあるが、何をされてもどうだっていい。何をされても恋してる。
ただ、
「…しん、さく…ッ…」
汗が滴る額に黒髪を張り付かせ、快楽を滲ませる口元と、子供のように物欲しがる可愛げな瞳と、それら全てを耐えて耐えて耐え抜く寂しげな表情をするこの人の顔が、もう見れなくなるのが勿体無いだけだった。
「せんせ……♡んっ、……も、っと、おく、まで…、ほし、い…」
掠れ始めた声で恋願えば松陰の瞳が驚きに瞬き、晋作は絶え絶えな息で愉快気に唇で弧を描いた。
今まで自分がこの人を好きな理由ばかりを数えていたけれど、思えばこの人が自分を好きな理由はきっと幾千あって。
それは形にも言葉にも想い出にもならなくても、確かにこの人の中にあると自分が信じることが出来るのなら、それでいいと思った。
分かり合えなくても掛け違っても、例え抗えようのない終わりを迎えたとしても、雨に気付かないこの人の傘になりたかった。
立っていられない程の氷雨の中、この大きな背中が罪悪に蹲っているのなら、どれだけ雨に濡れたとしても覆い被さって抱きしめたい。
あの日誓った愛の証立て。
手の届かぬ夜空の十字星が堕ちて鮮烈な夕陽色に染まる。
松陰は晋作の細腰を強く掴んで、晋作の顔を愚直なほど真っ直ぐに覗き込む。眼は逸さない、逃げない、死体のように動かぬ血塗れの身体を犯した時でさえ。
嗚呼、だからあの時、自分は恋慕を自覚した。
だから、その眼から零れ落ちたものをこの手の平で掴めたのだ。
晋作は喉を曝け出して、首を、魂を、とっくに捧げた全てをまた差し出す。なのに、この人は律儀にもいちいち返してくれるから、また差し出さなければと晋作は笑う。
後孔の更に奥。行き止まりの筈のそこに肉棒の先端が辿り着く。晋作は舌を出して短い息を吐きながら、暴かれたことのない結腸に迎え入れるべく、後孔に留まっている亀頭部を意識する。
「ん…っ♡あ…♡あ…ッ♡」
「しん、さく…ッ、いき、ます、よ…ッ」
余裕が抜け落ちた濁った声音が背骨に響いて快楽となって脳髄まで届く。最早未知の恐怖よりも、愛しい人の望みを叶えていると言う奉仕に似つかわしくない官能的な甘美が身体中に渦巻いて瞳がだらしなく緩む。
更に奥を暴くべく、肉杭が尋常ではない硬さと芯を保ったまま、行き止まりの先を引き破く。晋作は形容し難い感覚に肌が粟立つが、それでも迎えるために意味を持たない嬌声だけを上げて身体を弛緩させる。
穴が開くような鈍痛はあったかもしれないが、松陰の奥歯を食い縛って耐えながら慎重に腰を進める表情に、晋作は見惚れ、後孔が疼いて全てを快楽へと変換させた。
そうして、身体の奥底から、ぐぽ、とあり得ない音が聞こえた。
「〜〜〜〜〜———ッ————ッッッ!♡♡♡♡♡」
声にならない嬌声。強烈過ぎる快感に瞼の裏で火花が爆ぜ、眼球が反転する。霰もなく絶頂した筈なのに晋作の陰茎は震えるばかりで液を吐き出さず、ただ弛緩した身体をがくがくと震わせる。
結腸が先を咥え込み、息をするだけで脳髄に快楽を捩じ込まれる。
想像を絶する奔流。痛みも快楽も彼方へ吹き飛ばすほどの壮絶な狂喜は最高潮に達して脳髄から涎が落ちる。どこもかしこも穴が空いて何もかもが流れる。意識も理性も、本能も快楽も、どれも形にならずベッドの外へと流れ出す。
晋作は身体を小刻みに痙攣させ、今までの快楽が児戯に思えるほどの快楽に瞳が虚を眺める。
「はぁ…、しんさく、しんさく…」
「あ…っ♡あ、あ…っ♡ひ…♡あっ♡あ、あ゛ァ゛〜〜…ッ♡」
指一本動かせぬほど快楽に支配され、意味を持たない言葉だけを発する晋作の焦点の合わない瞳を覗き込んだ松陰は、晋作の頬に手を当てた。
「しんさく、しんさく、ほら、こっちをみて」
「あ…っ…♡……っ、…? あ、あ♡」
ぺちぺちと優しく頬を叩かれれば、魂の髄まで染み込んだ恋心を総動員して爪先ほどの正気を取り戻す。晋作は何もかもが溶けた視界の中、松陰の顔をやっと見上げる。
見上げた先には、朧げな瞳を目尻まで下げ、芯から緩んだ頬で子供のように微笑む愛しき人。
「ふふ。えらいね。かわいい子。しんさくはがんばり屋さんですね。ふふ、よくできました」
聞いたこともない舌足らずで喉が灼けるような甘い声。
思いがけず褒められて、雲の上で横たわるような浮遊感のまま、晋作は喘ぐことも出来ない。ただ夢精するかのように弛緩した身体を震わせて、絶え間なく軽い絶頂を繰り返した。
「あ…ぁへ…♡ッア゛ぁ…♡♡イ゛、…あ゛っ…♡は、ひぅ…♡」
「きみのなか、あつくて、ぐずぐずだ。舌でとけたあめだまみたいに、やわらかくてどろどろしてる」
血に酔った獰猛な肉食獣のような瞳なのに、とろんと蕩けた口調に晋作の取り戻したばかりの正気が狂わされる。
情交の最中は自分を気遣うことと快楽に耐えることで必死なせいか、言葉数が少なくなる松陰の信じられないほど執拗に甘い声と甘い言葉。
最早、松陰も正気が飛んでいる。けれども快楽に煮えている晋作は気づく筈もなく、松陰が口を開く度にもう元に戻らないほど弛んだ喘ぎ声を垂れ流す。
「あひ…ッ♡あ、あっ、ひ…っ♡あ゛、へ…、♡あ、あ、あっ、あっ♡」
「ほら、中だけじゃなくて、きみのあたまの中までかきまわせる。じょうずにくわえ込んでるね。すごいな、どこもぐちゃぐちゃだ」
蜜を纏った室内で、松陰がうっとりと恍惚の笑みを浮かべて舌なめずりする。獣が本能のままに喰うためではなくただ弄ぶための狂い狂った笑顔に、晋作は恐怖ではなく形を無くして蕩けた頭で蕩けた笑みを返す。あはは。せんせいかわいい。
「うごいたら、きみ、大丈夫かな。はは、だいじょうぶ? いいこだね。かわいいかわいい。ははは」
毒のように甘い舌たるい声に、泥のように酔った笑い声。理性も矜持も吹き飛んで、松陰が結腸に肉杭を埋め込んだまま腰を引けば、ぐぽりとまたあり得ない音がする。
「ひぎ…ぃ! ♡ん゛、あ゛っ! ♡イ゛ッ、あ゛ぁ゛っ! ♡あ゛、ぁ゛、あ゛あ゛〜〜〜ッ!♡♡♡」
鞭で打たれたような凄まじい快感が身体を打ち据えて、晋作は甲走った甘い悲鳴を上げる。崩れていた身体が芯を取り戻すが、臓腑の底を引き出されるような感覚は本来ならば悍ましさである筈なのに、愛しき人と最奥で繋がっている事実が認識を歪ませ恐れを誤作動させ、ただただ混濁した快楽に身体をしならせる。
「じょうず、じょうず。きみは、ほんとうに愛らしい」
「は…、ひ…ッ♡せん、ひぇ…ッ♡しんさく…、は…、じょ、う、ず…ッあ゛♡で、す…っ、♡か……?♡」
「うん、とても。えらいね、かわいいね。ぼくのしんさくが一番ですよ」
「う、うれ、ひ…ッ♡あ゛ッ! ♡お゛ぎゅ、♡あ゛♡あ゛ッ♡お゛♡あ゛あ゛ぁ゛〜〜〜〜〜ッッッ♡♡♡!」
下胎を突き上げられて喉奥まで犯される。喉奥まで届いて頭の中まで犯される。串刺しされてるのに何度も突き刺されて、比喩ではなく本当に身体の中心をぐちゃぐちゃにされる悦楽に絶頂し、意識が途切れ、また快楽の衝撃で叩き起こされる。その度、
こっちを見てと強制される。
見て、見て。とねだられる。
感覚があるのは瞳だけ。赫々とした十字星に侵される。寝ても覚めても夜影に煌々と瞬くその星だけは見間違えない。
掠れた嬌声さえも途切れ途切れになり、揺さぶれる身体はまるで壊れた玩具のようで。それでも快楽だけは律儀に拾って紅玉髄の目玉は今にも溢れ落ちる。
松陰は快楽に崩れた晋作の顔を覗き込んで、最早何の言葉も届かぬ晋作に、春の夜に霞む月のように朧げに囁いた。
「ようやく君に触れられた」