星戴彼我
一章「報復ではなく逆襲として」
青みを帯びた夜の終わりが見えた。
月のない澄んだ空はうっすらと星を戴き、物音一つしない寒々しさが手のひらに降りてくる。
高杉晋作は顔を上げて空を見た。東の空はゆっくりと目を覚まし始めているが、視界はまだ仄暗い。山々の影が静寂を深める。
「山中か。見晴らしも良くない。夜明けを待って動くか」
レイシフトでたどり着いた場所は山と思わしき斜面だった。遠くに連なる山脈が夜明け前の薄闇の中にぼんやりと浮かび上がっている。吐く息は白く、冷気が頬を刺す。
薄暗くて良くは見えないが、右側には古びた林道と木々がある。足元は剥き出しの岩がごろごろしており、足場が良いとは言えない。
晋作は慎重に歩くよう、マスターである藤丸立香とマシュ・キリエライトに声をかけた。いつもの魔術礼装はメンテナンス中のため、ボディスーツ型のカルデア戦闘服を纏った藤丸が自身の肩を抱いてぶるりと震える。
「日本……であってますかね?」
「おそらくはな。年代も不明だったろ? まぁ、やることは変わらない。あっちに歩けそうな道がある」
林道の両側には木々が鬱蒼と茂り、霧が立ち込めている。遠くに聞こえるのは鴉の不気味な鳴き声だ。
ふと、少し離れた場所で吉田松陰が空を見上げていた。松陰の瞳の星には、夜明けの空が映し出されている。
「先生、何かあります?」
「星がきれいです」
「…………そうですか」
晋作は短く答える。これが特異点修復任務ということを師は理解しているのだろうかと、晋作は不安を覚えた。
年代不明、場所は日本。ということしか分かっていない特異点。メンバーに選ばれたのはこの四人だった。
正確にはレイシフト適正があったのは松陰だけだった。不安要素があるとすれば、出発寸前のダ・ヴィンチの言葉。
『吉田君の霊基グラフが妙なんだよね。異常とは呼べないがどうも濁りがある。まぁ、高杉君もレイシフト出来るようだし、何とかなるだろう』
吉田松陰がカルデアに召喚される以前は破天荒の名を欲しいままにしていた晋作であったが、ついに松陰のお守り役に任命されてしまった。
それほどまでにカルデアでの松陰は我が道を爆進していたのだ。
ずりばいを覚えた赤子のように無邪気に立ち入り禁止の札を乗り越え、他の英霊との和やかな対話は過激な思想故に殴り合いに発展することも少なくない。
恐ろしいほど静かな炎焔の瞳を持つ
志という弾丸を放つ灼熱の
どうだ、これが僕の先生だ。
晋作が得意満面の笑みを浮かべても誰の賛同も得られない。とはいえ、晋作が誰よりも松陰の狂気スイッチを把握していることは確かだった。把握しているだけで止めたりはしないが。
松陰がカルデアに召喚されてからまだ日が浅い。晋作は何度か藤丸に同行しているが、松陰にとって本格的な特異点修復任務はこれが初めてだった。
年代不明の日本、霊基の濁り。晋作は辺りを鷹のように警戒しながら、林道に足を向ける。
ふと、東の空から光が射し始めた。青みを帯びた夜が徐々にその姿を消していく中、木々の影がぼんやりと浮かび上がる。
晋作は顔を顰めた。待ち焦がれた夜明けだというのに、皮膚が裏返るような薄気味悪さが濃くなる。なんだ、この臭いは。
細い林道の影が陽に照らされた。
「木に、なにか」
マシュの言葉が途切れる。風もないのに揺れる。
全員が言葉をなくした。
「――――――」
ちょうど目線の高さでぶらりと揺れる、爪先。
木の枝から垂れるは、人だったもの。
首に縄が食い込んだ身体は、もう、痛みにのたうち回ることはないだろう。
揺れる爪先の数は目視では数え切れず、まるで祭りの提灯のように林道にずらりと並んでいた。
「見るなッ!」
松陰の怒声が響く。木々の隙間から鴉が一斉に飛び立ち、ギャアと断末魔のような鳴き声が静寂を食い破った。
松陰が自身の外套を掴んで翻し、藤丸とマシュの視界を覆う。人としての純粋な怒りを眼に灯した松陰は唸るように林道を睨んだ。
咄嗟に晋作は二人を庇うように前に立ち、目を凝らす。眼前に広がる死者を辱める光景は明らかに悪意に満ちた人為的なものだった。
暁の風に乗って死臭が鼻につく。縄がぎしりと軋む。誰が、何のために。
晋作は真紅の瞳を細めて刀の柄に手をかける。敵の気配は、無い。生き物は感知できる限りであれば先程の鴉だけのようだ。
「……先生。どうします?」
林道から目をそらさずに晋作は問いかける。進むか引き返すかという意だ。松陰は外套で二人を隠したまま、静かに告げる。
「方角的に林道の先は山の中腹に続き、反対の斜面は山の麓に向かいます。拠点とするならば麓が適していますが、僕はこのまま林道を進むことを進言します」
「理由は?」
「今は情報が欲しい。この死体は敵側の仕業でしょう。何の意図を持ってこのような残虐行為をしているのか分析したい。……マスターとマシュ君には酷かもしれませんが」
「ふむ。概ね僕も同意見です。とはいえココは特異点だ。サーヴァントとしてマスター君の指示に従うが?」
晋作は外套で視界を遮られている藤丸とマシュを見やる。マシュは眉を顰めながらも周囲を警戒しているが、藤丸の顔面は真っ青だった。震える指で自身の胸を掴み、浅い呼吸を繰り返している。
目の焦点が合っていない、というよりは見てしまったものを脳内のどこに収めるべきか戸惑っているような瞳の揺れ方だった。
藤丸が息を深く吐いた音が聞こえた。
「す、進みましょう」
「勇猛だな」
「反対側が安全そうなら、これは逃げ込ませないための見せしめの可能性があります。林道の先に行けば敵側の情報が何かつかめるかもしれない」
「分かった。先生は先頭に立っていただけますか。僕が後ろについて警戒します。マスター君とマシュ君は下を向いたまま中央だ。歩きにくかったら先生の外套を掴めばいい」
「は、はい」
松陰を先頭にして一行は林道に足を踏み入れる。白んだ空には透明な星が潜み、鬱蒼とした林道には耐え難い悪臭と悪意が満ちていた。
足元の枯れ葉がくしゃりと音を立てる。林道といってもろくな整備はされておらず、時代的に江戸期辺りかもしれないと晋作は見当をつけた。
木々の間からは時折、薄明かりが差し込み、人影が風鈴のように揺れる。
しばらく進んだあと、おずおずとマシュが口を開いた。
「……あの、発言をよろしいでしょうか?」
「うん? 僕に言ってるのか。軍隊じゃないんだから好きに話せばいい。仕切りたがるのはただの僕の悪癖だ」
「はい、ありがとうございます。マスターの精神衛生上、下を向いたまま歩くのは理解できます。ですが、私はマスターの護衛として顔を上げて周囲を警戒してもよろしいでしょうか?」
「うん、却下だ」
軍隊ではないと言いながらも晋作は軍隊式の返答をする。晋作は歩きながら、おどけた様子で肩をすくめた。
「別に君やマスター君がこの光景で戦意を喪失するような弱卒だと馬鹿にしているわけじゃない。特異点修復に関しては、僕より君達の方が長けているんだろう」
「なら、」
「女子供にこんな光景は見せたくないっていう大人側の見栄だ。付き合ってくれたまえよ」
年長者が頑固な子供を優しく嗜める響きに恥じ入ったのか、マシュはますます顔を下に向けてしまう。松陰と藤丸が小さく笑った気配が漂ったので、晋作はむっと口を尖らせた。
「ちょっと。僕にだけ格好つけさせないでくださいよ、先生」
「すみません。君は生前、喧嘩も多かったのにみなに好かれていた。君の情深さと率直な物言いは誇るべきものだ」
「先生が言ったらただの皮肉ですよ。所詮、松陰先生の真似事に過ぎません」
「真似事で心が動くほど、他者は愚かではありませんよ」
いつになく松陰の弾んだ声音に、晋作は誰も見ていないというのに思わず顔をそらしてしまう。
「僕の死後、君は
松陰の言葉に、晋作の胸がつきんと痛んだ。
生前、松陰の元で過ごしたのはわずか二年。師が言う『偉業』は全て松陰が死んだ後の出来事だ。
二年という短い歳月は自分を塗り替えるには十分過ぎるほどの年月で、それからの人生も松陰が灯した炎と共に歩んできた。
吉田松陰の言葉が、行動が、在り方が、その全てが自分を自分らしくさせた。生きることは面白いことだと教えてくれた。
けれど、重なった歳月はあまりにも短く、彼岸と此岸に別れ離れた歳月の方が心に強く残っていることに虚しさを覚える。墓に話しかけた回数は、生きていた頃に話しかけた回数を上回ってしまった。
晋作と松陰の会話で空気が柔んだのを悟ったのか、下を向いたままの藤丸が口を開いた。
「高杉さんの活躍って格好良いですよね。やっぱり松陰先生の影響って大きかったんですか?」
「まぁな。先生のお歳に近づいたら背中ぐらいは見えると思ったんだけどな。遥か頂きだよ、ほんと」
晋作は嘘偽りない所感を述べる。
歳は近づいても師の志には程遠い。誰かの人生に光を射せるほどの鮮烈な星にはなれなかった。
先頭を歩く松陰の背中がわずかに動揺したかに見えたが、藤丸の小さな笑い声にかき消される。
「高杉さんって松陰先生にはびっくりするぐらい素直だよね」
「素直というか本当のことを言ってるだけなんだが」
「そういうとこ。雪みたいなキレイな感情だね」
「はい。松陰先生も謙遜も遠慮もなく自然に受け止められているので、見ていて心地良いです」
木々の隙間を鴉が遮る不気味な林道に藤丸とマシュの柔らかな声が響く。晋作は嘔吐しかねない悪辣な状況であろうとも、輝く小石を見つけ出せるのが二人の強さなのだろうと感心した。
先頭を歩く松陰がわずかに肩をすくめるのが目に入る。
「晋作は僕を美化し過ぎてる気もしますがね」
それは達観というには軽い響きだった。子供だからしょうがないと言い聞かせるような諦めと甘さが混じった声音に、晋作は再び胸に痛みを覚える。雪みたいな感情、というのは的を射ていた。
天から降る雪は触れれば自分の指の温度で溶けてしまうから、綺麗だと眺めているだけでいい。死んだはずの人がそこにいる。笑っている。
それだけでいい――はずなのに。
晋作は自身の後ろめたい臆病さが松陰を不快にさせていたのかもしれない、と急に不安を覚えた。
「そういうの、嫌ですか?」
「…………」
しまった、と晋作が勘づいたのは気まずい沈黙が落ちた後だった。
松陰に問いかけると返事が返ってくるのが嬉しくて、晋作は反射的に言葉を発してしまった。
松陰はきっぱりと答えを返すのが常だ。嫌です、嫌ではありません。どちらかしかないのに、珍しく言葉に詰まっている様子に晋作は思わず足元に視線を向けた。
奇妙な緊張感が走る。なぜか藤丸とマシュも息をつめて松陰の返事を待っている。
長い沈黙の後、低く澄んだ声で松陰が答えた。
「君にそう思われるのは、少し、困ります」
散々と続いた沈黙と淡々と紡ぐ言葉は、少し、という僅かな単位を逆に増幅させた。つまりは「かなり困っている」というのが真実だ。晋作は息を呑む。
元々、人からどう思われようと気にしない人だった。我が道を行く、という言葉は吉田松陰のためにあると言っても過言ではない。
それなのに――、
(先生が困る? なんでだ? 僕なんかにどう思われたって……)
晋作は何か言いかけて、口を噤む。
美化しているのだろうか。神聖視しているのだろうか。
例え語り合った日々が二年という短い歳月だったとしても。墓前に語りかける日々を積み重ね続けたとしても。
読んだ書物の中に師の言葉を見つけた。手紙に綴られた癖のある字を指でなぞった。遺った言の葉だけが全てだった。
その全てが再会という形で報われた。胸に溢れるのは偶像と現実が一致する歓喜の洪水だった。想い出を捨てる勇気もなかった灰色の日々が、輝かしい価値を取り戻した瞬間だった。
晋作は頭を振る。無駄じゃなかった、そう思えただけでいいはずだ。返事が返ってくるこの瞬間以上のものを望む必要があるのか。
どう思われたいか、なんて。
「お、おしゃべりはここまでにして。先生、何か気づいたことは?」
「非合理、非効率だ」
先程とは打って変わって張り詰めた低い声で松陰が返す。林道の地面の影がぎしりぎしりと揺れていた。
「死体はどれも成人男性。損壊した鎧、死因と思わしき刀傷から兵士だと思われる。死体の腐敗具合と地面の糞尿の少なさから戦場の死体を引きずってこの林に吊っている。だが、奇妙なのは残虐性と几帳面さが両立していることだ」
「案山子の役目にしちゃ数が多いですし、遊びだとしても規則性があります。他に何らかの意図があると?」
「今はまだ何とも。ただ、必要性を感じます。確固たる意志、いや執念と言い換えればいいのか」
しばらく歩くと林道を抜け、開けた地面が広がっていた。山の斜面に沿って階段状に荒れ果てた大地が見える。
夜が明けたばかりの空から薄明りが地面に落ちる。草と低木が生い茂る中、死体などが転がっていないことに誰かが安堵のため息を吐いた。
だが、遠く、遠く、遠くにか細い声が聞こえ、一同は顔を見合わせた。呼応するかのように、再度、悲鳴が山中に木霊する。明らかに女性か子供の金切り声だった。
「走るぞ!」
晋作が号令を出し、松陰が地面を蹴って先頭を走る。サーヴァントの脚力に及ばない藤丸は慣れた様子でマシュに抱えられた。
山の中腹を駆ける。緩やかな斜面は湿気を含み柔らかい。不安定な地面を駆け抜けて声のする方へと向かうと、約五十メートル先の斜面の上、低木の間に人影が見えた。
子供を抱えた質素な身なりの女性たちが、裸足で斜面を駆け下りてくる。逃げ惑っている。遠くて表情までは見えないが、なりふりかまわない様子だけが見て取れた。
木々の奥から漆黒の甲冑兵が刀を下げて追ってきている。
「敵影十五、いや二十!」
駆ける足を止めぬまま松陰が叫ぶ。誰もが必死の形相で逃げているが、追いつかれるのは時間の問題だ。
「マスター君、指示を」
「非戦闘員の救出優先! 高杉さん、指揮をお願いできますか!」
「任された。僕らはここで待機。非戦闘員の安全を死守する。先生はおひとりで敵を制圧してください」
「了解しました」
松陰は刀の鞘を手に持ったまま、飛ぶように駆ける。遠かった距離が瞬く間に縮まった。
外套が鳥の羽のように広がり、すれ違った女性達がぎょっと目を見張った。あの速さでは到底人の形として捉えられないだろう。
逃げるのに慌てて転んだ子供に母親らしき女性が覆い被さった。甲冑姿の兵がすでに刀を振り上げている。
松陰は速度を落とさず、間に割って入り、柄で敵の刃を跳ね上げた。
敵の刀が弾け飛び、無防備な懐が晒される。その瞬間、松陰は柄に手をかけて抜刀した。夜明けの太陽に刀が反射すると同時に、鞘から引き抜かれた刀の切っ先が甲冑の喉元を貫いた。
柄を回して絶息させる。兵が甲冑の隙間から血を流して膝をつけば、他の甲冑兵が松陰を敵と定めた。
悪質な殺意に松陰は律儀に返答する。
「どうした?」
紅焔の星が冷徹に染め上がる。躊躇いは元より無い。不安定な足場を物ともせず、松陰は足元の岩を砕かん勢いで地面を蹴った。
踏み出した足を軸にして、独楽のように身体が回転する。遠心力のついた脚が甲冑の兜ごと頭蓋骨の半分を陥没させた。
恐怖を覚えないのか、息絶えた同志に目もくれず甲冑兵が松陰に刀を振り上げる。
が、松陰の刀捌きに打ち合いはない。半身をずらした回避と同時に繰り出されるは無慈悲の一撃。
甲冑の背中まで貫通する白刃。血糊がついた刀を引き抜いて背後からの攻撃を柄で払う、全ての攻撃が次の攻撃へと連なる連撃。
甲冑兵が松陰の刀を避けても次の瞬間には蹴り殺される。距離を取っても地響きのような踏み込み音と共に眼前に迫る。
量産されるは強者だったはずの屍。
「邪魔だ」
松陰は甲冑兵の胸倉を掴んで地面に叩きつけた。
甲冑の重さで咄嗟には起き上がれず、松陰は冷徹な瞳を宿したまま、振り上げた踵で顎を砕いて踏み抜いた。
ここまでおよそ一息。作業のような剪定のような戦いぶりに、その場にいた人間が呆然と返り血に塗れた松陰を見上げている。
遠く離れた場所で松陰の戦いぶりを見ていた藤丸が呆気に取られた声を上げた。
「しょ、松陰先生って武芸の人でしたっけ?」
「いや。生前はてんで駄目だったぞ。サーヴァントになって身体能力が向上したからな、近代生まれの役得だ」
晋作が答える。ふと、低木の奥から更に人影が見えた。甲冑兵ではなく、もっと粗末な鎧当てを身にまとった男たちの動きはぎこちない。明らかに女子供を庇いながら駆けている。
男たちの足軽のような姿が林道に吊るされていた恰好と酷似していることに気づき、晋作は腹が煮えるのを実感した。
見せしめ、という藤丸の言葉は正しかった。あれは女子供を逃がせばお前もこうなるぞという宣言だったのだ。
「非戦闘員の人数が多い。マシュ君の宝具展開は待て。ここで敵を殲滅する。マスター君、簡易召喚は」
「それが、出来ません。何かにこう、頭を押さえつけられている感覚です」
藤丸の答えに晋作は仕方あるまいと呟く。土地――霊脈の問題かもしれないと晋作は眉を寄せた。この土地にきてから、足元に臓物をぶちまけたような悍ましいものが轟いているのを感じていた。
晋作はすうと息を吸い込んで、声に魔力を乗せて山中に響き渡る大声で叫ぶ。
「さぁさお立ち合い!
油売りの口上にその場にいた人間が思わず目を見張る。よほど急いで逃げてきたのか、裸足の女性が多い。地面に皮膚が削られて血まみれだ。
「油ではなく恩を売ってやろう! 逃げるが勝ちだ! さぁさ死に物狂いで死ぬほど走れ走れ!」
尊大な物言い。だがそこには力があった。思わずこんちくしょうと腹正しくなるような。
逃げ惑う弱者の眼が決意に満ちる。確かな意思を持って晋作の言葉通りに駆け出してくる。
敵地のど真ん中で刀を振るっていた松陰は目元で笑った。
松陰の一振りで小手をつけた敵の腕が舞う。振り下ろし、振り上げる。その動作に欠片の躊躇いはなく、慈悲もない。
槍が松陰の頬を掠めても、瞬きもしない貌は揺るがない。松陰の刀が敵の胸を刺し貫く。意地か狂気か、胸を貫かれた敵兵が血を吐きながらも松陰の刀を両手で握りしめる。
甲冑の隙間から滴り落ちる血に松陰は顔色ひとつ変えず、柄頭に手を当てて更に刀を押し込んだ。絶命。血脂に塗れた刀が引き抜かれると同時に、返す刀で襲いかかってくる敵の首を斬る。
晋作の指示通り、目視した二十ほどの敵を松陰が制圧する。逃げていた女性や子供は藤丸達の後ろまで下がっていたが、何人かはまだ山の斜面だ。
戦闘終了かと思われた瞬間、マシュが叫んだ。
「サーヴァント反応です! クラスは……
切り裂く風が吹く。太陽は堕ちた。鴉が笑う。ぱりりと、地面が黒く稲光る。
星々が消えた空の下に男は立っていた。青みを帯びた黒髪と、裾から崩れそうな外套が風に靡く。雪を反射させたような白い洋装には、乾いた血がこびり付いていた。
分厚い硝子眼鏡の向こう側、火針の星の瞳に無情な決意が宿る。
「一人も残すな」
送り火のような声だ。熱があるのに冷たさと悍ましさが遠くに聞こえる。
逃げ惑う弱者、立ち向かう強者。世界の美しさと醜さを凝縮した眩い光景を見下ろして、
「墓穴に入ることすら許さない。はらわたを戻す猶予すら与えない」
男の言葉に呼応するかのように漆黒を纏った兵が次々に弱者にも強者にも等しく襲いかかる。兵達は人であり人でない。男の狂気という焔に自らを身を投げた狂信者。男の業火に喜んで焼かれ、踊り狂う人の形。
「骸は吊るして鴉の餌だ。焚べた火で全てを焼き尽くす」
罪なき者も罪ある者も神の鉄槌のごとく叩き潰す。タールの海のような瞳に星々の火が轟々と燃えた。
この地に生きる者全てを引きずって引きずって血と骨と慟哭の道を切り開く。
「皆殺しだ」
それはこれ以上にない正しさだと、『吉田松陰』は錆びついた貌で笑った。
……違和感はあった。
カルデアに召喚されてから何かと世話を焼きたがる晋作に生前と同じ微笑ましいものを感じた。
最初は小さな違和感だった。晋作の喋りが止まらないのだ。自分の相槌さえ待たずに話し続け、まるで止まれば生命維持ができない魚のようだった。
ここまで喋る子だったろうかと松陰は首を傾げる。違和感は強くなる。自分以外と対話している時は晋作はむしろ聞き役に徹し、絶妙なタイミングで切り返す。打てば響く返答、叩けば鳴る饒舌、当たれば砕く皮肉。
そうだ。そういう対話をする子だった。
なのに、晋作の喋りは止まらない。松陰は念仏を唱えるかのような晋作の必死さを制した。
「晋作。僕の話も聞いてください」
三日月の眼は満月のように大きく見開かれ、晋作は罰が悪そうに俯いた。それからは普通に対話が出来るようになり、松陰は安堵する。死後の再会など互いに初めてなのだ。多少の差異は仕方がなく、徐々に調整すればいいと思っていた。
けれど違和感が違う形を成す。
今度は賛美が止まらない。過剰、いや異常とも呼べるほどだった。
元々自分など称賛に値しない人間だ。信ずる道を突き進んだことに後悔はないが、客観的に見れば愚かとも言える振る舞い。なのに死後、奉られていることを知った時には眩暈がした。
政治的思惑があった事は理解出来るが、何故そこまでと不思議に思うほどだった。他の英霊に聞けば、
戦いの神曰く「そりゃお前さん、積み上げた屍の数も戦士の証だろうよ。殺した奴にも殺された奴にも等しく敬意は払われるべきだ。それが結果的に万を超す死者を生み出した戦士なら尚更な」とのこと。
必要悪曰く「古今東西、死者ってのは甦って生者に噛み付くもんだ。あ、映画の話ね? 要は死んだ奴への後ろめたさが『
つくづく自分は俯瞰的な視点が抜け落ちていると感ずる。カルデアで英霊達と対話すればするほど自分の
芽吹いた春の息吹さえ感じられなくとも、明日を夢見て瞼を閉じた。暗い空の下でも、冷たい土の中でも、確かに満ち足りた死だったのだ。
だからなのか。
そのせいなのか。
晋作は死んだ後に祀られた吉田松陰を見ている。
国を憂いて命を顧みずに幕府に申し立て、愚かな為政者に首を撥ねられた悲劇の革命家。実態の伴わない虚像。事実だけ見れば間違いはなく、マスターが生きる現代の評価であるならば死人は黙って受け入れるのみだ。
だが、晋作は違う。生前、二年という短い歳月ではあったが、濃密な日々を過ごしたと松陰は自負している。親の反対があっても家を抜け出しては夜道を駆けて塾にまで来てくれた一途さ、健気さ。
身体が強くないのに駆けたせいで息を弾ませ、門を叩く。そうして、自分の姿を見つけた途端に花が咲くような笑顔を向ける。
それは確かに、自分にとっての暖かな春だった。
だからこそ共に過ごした日々は何だったのかと拳を握らずにはいられない。手のひらに指が食い込んだ痛みの理由も分からずに。
誰に何を言われても構わないが、晋作にだけは共に生きた日々の自分を想い出にして欲しかった。
……晋作にとって、自分が死んだ後の歳月が長すぎたことも知らず。
山の斜面から女子供を庇うように足軽の武具を身に着けた男たちが姿を現す。全身甲冑の兵とは違う、戦に慣れていない人間であることはすぐに知れた。
松陰は斜面を駆け上がり、追ってきた甲冑兵の足元を蹴り飛ばし、地面に転がして刀で胸を貫いた。
刀を引き抜きながら、松陰はそばにいた男に声をかけた。その背後には男によく似た子供が呆然と松陰を見上げている。
「逃げているのは家族ですか?」
目尻の深い男がびくりと身体を震わせる。突然現れ、鬼のように刀を振るった松陰が窮地を救ってくれたという現実に頭が追い付いていないようだった。
男は怯えながらも口を開く。
「か、家族は」
滲んでいるのは血だった。震えているのは怒りだった。
「や、焼き殺された。妹の家族だけでも、逃がしてやりたくて……」
「……分かりました。僕らでは全員の把握が出来ない。誰か、点呼を」
松陰が指示を出すと、年嵩の男がうなずいた。敵の頭目の詳細は分からないが、少なくともこれだけは分かる。死体を吊り、逃げ惑う女子供を背後から襲い、火を放って焼き殺す。許しがたい悪鬼だ。
松陰は怒りを抑え、家族を殺された男の肩を掴んだ。
「君が生きていて良かった」
どうあれ、この男がいなければ子供は殺されていたかもしれない。松陰の真っすぐな物言いに男が息を止める。いや、息を思い出したかのようだった。家族を殺されてから止まっていた男の刻が松陰の手のひらによって動き出す。
ふいに誰かの叫びが届いた。
「子供だ! 子供たちがいるぞ!」
木々の向こうから小さな影が二つ走りだす。姉と弟と思わしき子供。逃げ遅れたのか、その顔は子供とは思えぬほど引き攣れていた。松陰は地面を蹴って斜面の上まで駆け上る。だが、瞬間――、
松陰は目を疑った。
子供達がいる場所とは反対側。距離にして約二十メートル。
澄み渡る空の下、岩だらけの斜面に一人の男が立っていた。背後には銃を構えた重鎧の兵達が二列横隊で命令を待っている。
大小さまざまな岩や石が散らばり、まばらに生えた乾いた草や葉のない低木が点在している。
男が立っていた。青みを帯びた黒髪、雪を反射させたような白い洋装、分厚い硝子眼鏡。
無骨な手には禍々しい曲刀の鞘が握られている。まるで蛮族が弱者の首を落とすための首斬り刀。
異様だった。
異様ではないからこその異様だった。
特異点では往々にしてこのような事態と相見える。記録でも説明事項としても認識していた筈だったが、異様な現実に直面して松陰は言葉を失わずにはいられなかった。
分厚い硝子の眼鏡の向こうで、業火の星が笑った。
山脈の間に強風が駆け抜ける。男の重苦しい外套が突き上げる強風に煽られ、まるで旗のように真横に翻る。
裾から崩れそうなボロボロの外套に刺繍されていた柄は、その姿を変えていた。
どろりと溶け堕ちた太陽。朽ちた松に群がる黒鴉。
松陰の身体に骨が焼ける悪寒が走る。見間違えようもなく、見間違いであって欲しいという願いさえ霧散するほど、悪夢として悠々と地面に足をつけていた。
『吉田松陰』
それこそがこの特異点の敵の名前。倒すべき悪鬼。まるで見世物のようにかけがえのない命を木に吊るした許されざる男の名。
松陰は獣のような咆哮と共に足裏に万力を込める。英霊の身であればこの距離を刹那で詰められる。あれを生かしてはいけない。足が千切れようとも肺が潰れようとも今、この場で、首を絶たなければならない。
激情という使命感が着火する。こうであれと決意したのならば死してなお突き進む宿命が背中を押す。
だが――、すぐそばの低木に潜んでいた銃兵の群れに思考が止まった。二列横隊で銃口をこちらに向けている兵達の指には引金がかけられている。
撃つのか。
胸中で確認してしまった。それこそが致命傷。
止まらぬ足が止まってしまったことこそが敗因。
松陰が銃口を無視することは容易い。けれど、自分の周囲には敵も味方も入り混じっている。それどころか、逃げ遅れた子供さえいるのだ。
『自分』ならばそんな命令は下さない。
松陰は歯を食い縛った。『吉田松陰』が姿を見せたことにようやく合点がいく。このためだ。この時のためだ。自分の思考を鈍らせるための一手にまんまと引っかかってしまった。
松陰よりも早く味方兵が動く。咄嗟に子供達を庇うように抱きしめ、無防備な背中を銃口に晒す。
同時に放たれた銃撃音がまるで鐘のように重く鳴り響いた。
「――――ぅそ、だろ……」
自分の絶望じみた声音に愕然とする。かなり距離はあるが敵兵の首領らしき姿を捉えた。悪鬼と呼ばれる残虐非道な男の姿を。
それは見間違えようもなく敬愛すべき『吉田松陰』だった。
続いて、銃声。
晋作ははっと我に返り、切り替える。頭目が姿を見せたのならば援軍も到着している。松陰がいる前線は完全に混乱していた。
松陰一人ならば何の問題はない。だが、今は逃げ遅れた子供と兵とも呼べない抵抗者がいる。
ノウム・カルデアがどれだけ崇高な使命を抱いていたとしても、吉田松陰は目の前の弱者を見殺しにはできない。その選択肢すらない。
頭の中で算盤の玉が弾かれるように現状と打開策と優先すべき事項を瞬く間に組み替える。知らず、噛み締めていた唇から血が滲んだ。
現状は間違いなく悪い。非戦闘員を見捨てる道もあり得る。けれどそれは最悪の手ではあるが最後の手段だ。少なくとも、自分が血を流してもいない現状で取るべき道ではない。
勝利条件はただ一つ。
それさえ叶うならば、この命の使い所はお手のものだ。
晋作は藤丸のところまで駆け寄った。
「マスター君、時間がないからよく聞け」
「は、はい」
「前線にいる先生と非戦闘員を後退させるぞ。僕が
「……ッ!」
それは晋作が藤丸達と合流出来ないという宣告だった。息を呑んだ藤丸に晋作は笑った。察しの良さは嫌いじゃないが、褒められるのは嫌がるだろう。
「僕には花道こそが相応しいが裏方も中々好きでね。だが安心したまえよ。僕と君は焼山葛だ」
「……信じます」
「うん、よろしい。君の得意なことを忘れるんじゃないぞ」
晋作は藤丸の肩を軽く叩き、駆け出した。
月の無い夜でも瞬く
夜空には
だからこそ、何よりも尊い。
晋作は内にある魔力に焔を灯す。
最後の焔だ。
恩師のためにこの身を捧げる。それは甘美な誉れだった。
火神を宿した十字の星。自分にとっては何よりも特別で尊くて生涯消えることのない光。
それなのに声を忘れ、姿を忘れ、温もりを忘れ、匂いを忘れた。夢の中でさえ姿が不明瞭になる。
どうしようもない焦りが胸に生まれ、ただ我武者羅に生きた。せめて、あの人の志だけは忘れないようにと。
蝕んでいく、抜け落ちていく、穴が塞がらない。
塞ぐために死んだ吉田松陰を形作る。
声も姿も温もりも匂いも全てを作り上げて偶像として心に留める。例え現実とは乖離した姿であっても、確かめる術がないことに何処か安堵していた。
ただただ忘れていくことに焦っていた。どうしてこんなに忘れたくないのか理由も分からず。
(忘れられるより忘れる方が怖いなんて、思いもしなかった)
巡る季節の中で姿は朧げになり、声の低さを思い出せず、
死者を思い出すというのは、孤独とは無縁のひとりの楽園で生きることだった。けれど、何の足しにもならない想い出の中だけで生きれるほど弱くはなれなかった。もう一度会いたいという祈りを捨てるほど強くもなれなかった。
晋作は笑う。
都合の良い偶像に語り続けた返事のない日々を、まだ、認められないでいる。
「ぐ……ッ!」
夥しい血が地面に散らばる。草木を濡らし地面を濡らし、松陰の外套を真っ赤に染め上げた。
「あ、あんた……っ! だ、大丈夫か⁉︎」
男が血の量に慄きながらも片膝をついた松陰に声をかける。込み上げるものに逆らえず、松陰はその場でごぷりと血を吐いた。
自身の損傷箇所が分からない。
身体の何処が抉れているのか分からない。
敵兵に銃口を向けられた時、松陰は自分の防御を捨てた。代わりに、家族を殺された者たちと家族を守ろうとする者たちを守るため、近場にいた甲冑兵を彼らの盾とした。
必然、松陰の身体は銃弾の雨に晒された。
全員は庇えなかった。子供は無事だが、何人かは地面に倒れて呻き声をあげている。
松陰は血で滑る柄を握り直す。
激痛を感じる前に炎に身を投げたような熱さが全身を駆け巡る。痛みが脳に届いて刀が鈍る寸前、松陰は千切れかかった腕を振り上げた。
「頭を下げろッ!」
地面に刀を叩きつける。爆発の如き轟音と共に土と石が砕け散り、宙に舞った。ただの目くらましだ。一秒でも時間を稼げればいい。あの男から逃げきれればいい。
この地に生きる者を根絶やしにせんと殺意を撒き散らす男と瓜二つの松陰を、男たちは恐れと戸惑いの目で見る。けれど、松陰は激痛に耐えながら血を吐いてそれらを振り払った。
「撤退だ! 負傷者を見捨てるな! 息がある者には手を貸せ!」
松陰が銅鑼を叩くような大声を響かせると、男達が我に返ったように目を見開いた。
喉に残った血を息と共に吐き出す。松陰の顔は苦悶に満ちていても、揺るぎない意志が瞳に宿る。
「死に時は今ではない!」
自らを奮い立たせるように叫ぶ。男達は松陰の言う通り、動けない者を担ぎ、子供達を先に逃がす。みなが慌てた様子で次々と山の斜面を駆け降りた。
特異点が修復されれば、全ては「無かった」ことになる。歴史の修正力が働く。だが、そこでの「死」は「死」だ。ここにいる人間が死ねば、特異点が修復された後で何らかの形で死ぬことになる。
隔絶された異世界ではなく、糸が繋がった現実世界。
死ねば、そこまでだ。
誰の死も平等に修正される。命は修復されない。放っておけば世界の破滅を招きかねない特異点での戦闘は苛烈を極め、ひとりひとりの命を救っていては本末転倒だ。
だが、我らがマスターは出来ないことをあきらめることはあっても、出来ることを決してあきらめない。ノウム・カルデアは常に最善ではなく最良を目指す。
少なくとも松陰には出来なかった。家族を守ろうと武器を手に取り立ち上がった者達を自分の命惜しさに見捨てるなど。
特異点の空の星々は美しかった。仮想現実空間とは肌で感じる印象がまるで違った。
ここは魂を持った一個人が確かに生きている世界。
この美しい世界で、幼い子供を見殺しにすることだけは出来なかった。
影法師であろうとも、人理のサーヴァントであろうとも、この身は吉田松陰だ。
自分が信じた道に子供の命を手放す選択肢は有り得ない。あるのは必然ではなく当然。魂にまで根付いた志は決して揺るがない。
土埃の中から敵の追手が迫る。甲冑兵が刀を構え、銃を構える。
松陰は自身の外套が血で重みを増すのを実感しながら、刀を振るった。貫き、穿ち、捩る。手負いの獣じみた咆哮。
人の身であれば絶命している傷と血の量。だが霊基を修復している猶予も時間もなく、松陰は魔力全てを刀に乗せて振り下ろした。援軍は先ほどの雑兵とは違い、一騎一騎が英霊並の力を有している。
負傷者を肩に担ぎながらの撤退はどうしても時間がかかる。松陰は捨て身で庇い続けた。
膝を撃ち抜かれる。けれど踏み込む足に迷いはない。肩を槍で貫かれる。けれど刀を握りしめる手の力は緩まない。
血を吐くのは初めてだ。
生前はおろか、英霊となってからも血を吐くほどの重傷を負ったことはない。
(つらいな)
痛みを無視して刀を振り続ける。胃か肺か、損傷した臓器が出血し、身体が異物と判断して血の塊を排出する。臓腑が悲鳴をあげる。鉄錆が喉を焼く。血の生温かさに今度は胃液を嘔吐する。
(君はずっと、こんな辛くて)
子供のような顔で笑う教え子を思い出す。想像するのも烏滸がましい。辛かったのは身体の痛みだけではなく、師が、仲間が、置き去りにするかのように先に逝ってしまったこと。何度も何度も死に場所はここだと決めても死に損なって。
晋作はそれでも戦い続けた。血を吐いても歩みを止めなかった。
託されたものを胸に宿して、恐れながらでも明日に踏み出した。
その決意は、志は、重荷ではなかったのだろうか。
ひとりで背負うには、重すぎたのではなかったのだろうか。
「――――松陰先生ッ!」
いるはずのない教え子の声に松陰は顔をあげた。血で滲んだ視界に流星のような紅梅がどんな色よりも煌めく。松陰は思わず足を止めた。出血多量で走馬燈を見たかと思ったのだ。
己の血か、或いは敵の返り血か、白い羽織を血で染めた晋作が刀を振るっていた。紅梅色の髪と赤い血が空に舞う。
「先生! あとはお任せします! 僕の予想通りなら、先生こそがマスター君のそばにいるべきだ!」
火炎瓶を投げつけて晋作が敵兵の中に突入しようとしていた。松陰は折れた骨が内臓を刺す痛みの中、ようやく気付く。晋作が自分達を逃がすためにここで命を散らそうとしていることに。
神経がこそげ落ちたような寒気が全身を満たす。血が凍りつく。
「――――駄、目だ……っ」
松陰は春に手を伸ばした。届かなかったはずの、辿り着かなかったはずの、暖かな春に。
晋作の手首を掴む。あまりにもその手首が細くて、手で覆い隠せてしまう。松陰は我知らずの内に血みどろの指に力を込めると、晋作が息を呑んだ。
「君を、もう、ひとりにさせたくない……!」
思わず口から出た剥き出しな言葉に、松陰自身が夢から覚めたように目を見開く。それは義務感や使命感から発せられた言葉ではなく、直情的で感情的で、恥さえ覚えるほどの祈りだった。
師という立場から逸脱した自身の言葉に動揺してしまった松陰は、咄嗟に晋作の腕を離す。ずるりと血の痕で指が滑る。
それは致命的な失態だった。悔やんでも悔やんでも悔やみきれぬほどの掴み損なった明日だった。
晋作は離れた松陰の手を見て、小さく笑う。
「……確かに、僕はひとりだと自棄になったこともありますが、孤独だと思ったことはないんです」
もう、届かなかった。
手も、言葉も、想いも、何一つ。
晋作は夜明けの逆光を受けて晴れやかに笑った。
「どうか、僕の姿を留め置いてください!」
春のような声音で高らかに歌った晋作に、無念の色など微塵もなかった。
晋作は松陰に背を向ける。役者が舞台から降りるように鮮やかに、潔く。晋作は土煙が収まりつつある敵陣の中にその身を投げ出し、どんどんと離れていく。斬撃と火花の音が遠くなった。
松陰は離れてしまった手で、届いたはずの手で、拳を作った。後悔と虚しさが手から滑り落ちて地面に穴が空く。目が乾く。喉はからからだ。
そうか。君はずっとこうやって死にたかったのか。
「……後退します。負傷者を中央に」
松陰は踵を返してみなに指示を出す。多量の血を吸った外套を引きずるようにして足を動かした。晋作が作ってくれたこの時間を無駄にするわけにはいかない。
鉛を噛んだ感覚がおさらまない。残骸のような身体だ。どの傷より胸に深く刺さった痛みはいつまで続くのか。挫折に慣れてるはずの重たい心を捨てたい。
夜明けが嫌いになりそうだった。
山の斜面を滑り降りると逃げた人々と藤丸とマシュの姿が見えた。いるはずのない紅梅色の髪を探してしまい、松陰は弾かれたようにハハッと乾いた笑い声を漏らした。
そうか。これが置いていかれるということか。
紅梅色の髪が地面を這う。真紅の瞳が冷徹に細められた瞬間、甲冑の顎下の隙間に刀を突き込む。
晋作は邪魔だと言わんばかりに血で溺れた甲冑兵を蹴り飛ばした。
「派手に燃えなぁ!」
炎が舞い散る。漆黒の姿へと再臨した晋作は銃剣で目の前の敵を薙ぎ払う。
増援を全て打ち砕く。敵兵を地面に叩きつける。なんともまぁ、つまらん戦だと晋作は舌打ちをした。敵兵に感情というものが見られない。統制はされているが臨機応変の動きがないため、打ち崩してしまえばただの烏合の衆となる。
人の形をしているが中身は人ではないのかもしれない。
だが少なくとも意志があった。目の前の敵の息の根を必ず止める。動くもの全てを殺す。生きていることが許しがたいと言わんばかりの憎悪。恐らくそれは、彼ら敵兵のものではない。
離れた場所で悠々と高みの見物を決め込んでいる男のもの。
晋作は歯を食いしばる。その様子から姿形が同じであっても男が吉田松陰でないことは明白だった。
行動力の化身である師がただ眺めるなど、あってはならない異常事態だ。
晋作は敵兵の首に刀を突き刺す。背後の敵を見ずに銃口を向け、銃剣の引き金を引く。魔力の底が見えてきた。だが、仕方あるまい。自分は
(まぁ、構わんか。あの顔を殴ってみたくなってきた)
晋作は敵の心臓を撃ち抜いた。はぁ、と息を吐いて天を仰ぐ。夜は明け、陽の光がなんともまぶしい。晋作は顔を正面に向けた。男がようやく晋作の目の前に立っている。
差異を見つけることが難しい。
青みを帯びた黒髪、硝子眼鏡の向こう側に業火の星があった。
「お久しぶりです、先生。僕のこと分かります?」
軽口じみた晋作の自己紹介に、男がふっと笑った。
「相変わらずですね、晋作。君の目は君自身がいない明日の先まで見据えている」
師の柔らかな声音に晋作は舌打ちをした。この『吉田松陰』は松下村塾の想い出を有している。悪辣で傲慢な残虐性も有している。それが何よりも耐えがたく、晋作は血よりも濃い声音で呻いた。
「……何故、こんな真似を」
「吉田松陰らしくないと?」
赤い星がどこまでも残酷に沈む。『松陰』がにたりと笑った。
「自惚れるなよ、恥晒しが。たかが二年の時しか過ごしていない君に何が分かる」
「それは失礼。たかが百五十年で腐ってるとは思わなかったんですよ。――アンタの性根がな!」
晋作は歯を食い縛って銃剣を振り上げた。最大出力で敵の刀を叩き折らんとするも、真正面から打ち合っても男はびくともしない。
全身で、全霊で、甲高い金属音と共に荒々しく銃剣を奮い続ける。飛び散った火花が互いの瞳で爆ぜた。
晋作が糾弾するように叫ぶ。
「幾ら思い切りがいいとは言え、人道まで
「生き汚い溝鼠がよく吠える! 友と同じ名誉の犬死にが今度こそ叶うといい!」
口を大きく開けて笑った『松陰』の言葉に、晋作は目が剥くような怒りを覚えた。自分のことならば幾ら罵られようともかまわない。だが、それは、その言葉は、蛤御門の変で、池田屋で、数多くの戦で死んだ友を無駄死にだと蔑む侮辱だった。
憤怒で両眼が赤く染まる。躊躇いなど木っ端微塵だ。晋作は獣のように吠えた。
「貴様ぁ! この面汚しが! 貌を削ぎ落して喉を潰してやる! 二度とその名を語れると思うなよ!」
「掃き溜めのような人生で幕を閉じた君ほどの名ではない!」
「クッッッソ喧しい! 俺の生き方に唾を吐けるのは天だけだ!」
満身の力を込めて振り抜いた晋作の銃剣が男を斜面の下へと吹き飛ばす。地面を削った男は体勢を崩しもせず、どこか呆れたように笑った。
「……勝算がないことぐらい、君も分かっているでしょう」
「敵前逃亡はただの趣味です」
つまりは勝算が有る無しは関係がない。
ふと、晋作は場違いだと思いながらも僅かな違いを見つけた。
精悍な顔立ちは同じだが、男の目元の皺が深い。声も僅かに
『松陰』は笑みというには歪んだ形で口端を吊り上げた。
「全く、好ましい。逃げることが出来たのならば、僕の人生も違ったものになったでしょうね」
その言葉にどんな真意があるのか汲み取れるはずもなく。汲み取る必要性も感じず、晋作は地面を蹴った。
雲一つない夜明けの晴天に轟く雷鳴。否、足元から聞こえた。
晋作の足元に、ぱりり、と黒い雷撃が走った。
大地が神の怒りに触れたかのようにドンッと揺れる。巨木さえ真っ二つにする黒い雷撃が地中から晋作の全身を貫いた。
「がッ――――!」
悲鳴すらも焦げる。骨まで破裂する激痛に晋作は白目を剥く。人であれ英霊であれ、容赦なく四肢を引き裂くほどの衝撃。
辺り一面を埋め尽くす黒光が大気を切り裂く。草の根にさえ憎悪を向けた黒い雷はありとあらゆるものを焼き尽くした。
視界が黒く塗り潰される。晋作は地面に膝をついた。
身体の内側から焦げた匂いが充満する。最後に吐いた息は火のようだった。
手足がついているのかも定かではない激痛の中、聴覚だけが残った。遠く、遠く聞こえるのは、確かに師と仰いだ人の声。
「逆賊、誅すべき」
鴉がギャアと鳴く声を最後に、晋作は意識を手放した。