星戴彼我
二章「目無しの黒鴉」
意識が戻ると同時に全身を貫く激痛が襲ってきて、晋作は咄嗟に喉奥で声を殺す。
目を開けると視界がぼやけていて周囲の状況がはっきりと見えない。人を食う大蛇の背中に寝そべっているような不快感。骨の軋む音が刃となって頭蓋骨を襲う。
「……っ!」
呻き声が漏れる。全身が火傷を負ったように熱く、冷や汗が額を伝う。痛みを堪えたくて胎児のように背中を丸めた。
「――…………、探索範囲を西側へ。目標を捕捉後、包囲して――……」
柔らかく低い声が耳に届き、晋作は虚な眼で安堵の息を吐く。嗚呼、好きな声だ。風を切って胸に届く火矢のような声音。八畳の狭い部屋であの大きな口が開くといつも心臓がどきりと跳ねた。
晋作は朦朧とした意識のまま、心地良さに目を瞑って再び眠りに落ちようとした。
だが、鼻につく焦げた匂いに氷で殴られたように我に返る。違う。
目を見開けば小石が頬をこすって、ようやく自分が畳ではなく地べたに転がっていることを自覚した。
(……また生き残ったのか)
肝心な時に血を吐くよりも強い運命らしい。晋作は胸中で嘆息し、地面に頬をつけたまま目だけを動かす。軍用天幕の中の地面に転がされていた。
薄暗い天幕の中央にランタンが吊り下げられ、隙間から外の光は見えない。恐らくは陽が沈んでいた。
じゃらりと不愉快な音に眉を顰める。どうりで身体が重いと思った。ひとまとめにされた手首は鉄製の手錠で繋がれており、足首にも同様の足枷がついていた。
幸いにも足首はひとまとめにされていないものの、長い鎖で繋がっている。足は開くので歩行は可能だが、走るのは難しいだろう。
死に損なった惨めさと不甲斐なさに切腹したくなるも、勝利するための手札が一つ増えたと思えば喜ばしい。転んでも喀血しながら起き上がるのが自分だ。
ふと、顔を上げれば師と瓜二つの男が兵に指示を出し終わったようで、まるで規則正しい人形のように敬礼を返した兵達が天幕から出ていく。
ランタンの炎が男の影を天幕に照らす。鉄柱を芯としているかのような真っすぐな立ち姿、ボロボロの裾が不気味に揺れた。
『吉田松陰』が眼鏡を外し、地べたに転がっている晋作に顔を向けて小さく笑った。
「僕のために死ねなかったからと言って、そんなに拗ねることはないでしょう」
「………………」
晋作は男を白けた目で見上げ、緩慢な動作で上半身を起こして地面の上にあぐらをかく。
天幕には金属製の机しかなく、椅子すらない。地図が広げられた机の縁に寄りかかった『松陰』は腕を組んでかすかに首を傾げた。
「何も理解していない顔ですね」
「はあ、すみません。出来の悪い生徒で」
魔力は底をついている。強力な術式が施された拘束は万全な状態であっても破るのは難しいだろう。
置き物と同じことしかできない晋作はあきらめて男との対話を試みる。
「サーヴァントの拘束なんて効率悪いでしょう。なんで僕はここにいるんですかね?」
「諸事情でこちらからは攻め入るのが中々難しくて。向こうから攻め入ってもらった方が一網打尽にできるんですよ」
「僕を助けるために突っ込んできた彼らを返り討ちに?」
「そうです」
「いやいやいや。誰がそんな危険を冒すっていうんですか」
晋作が肩を竦めると手錠が耳障りな音を生み出す。
魔力パスは繋がっているので自分の生存は藤丸たちにも知られているだろうが、正直、自分を助けに来るメリットが見当たらない。というか師ならば「自力でなんとかしなさい」等と言って自分が脱出した後のことをすでに考えていそうだった。
だが、次に『松陰』から聞かされた言葉に思わず耳を疑う。
「例えば、君が慰み者になっていたら?」
「――――――は?」
理解が追い付かず、晋作は間抜けな声を上げてしまう。
それを面白がるように『松陰』が口を吊り上げた。
「君が陵辱され、輪姦され、泥水よりも精液を啜って生き恥を晒していると知れば、助けが来るかもしれません」
男の不協和音のような声が天幕を満たす。晋作は唖然と口を開いたまま、男を見上げた。
ざぁざぁと耳の奥で土砂降りの音がする。そうして、晋作はようやく腹の底から重い息を吐いた。
「………………あーあ、」
晋作はゆらりと立ち上がる。手首につけられた手錠がじゃらりと鳴った。
晋作は『松陰』の目の前に立ち、眉間に渾身の力を込めて睨みつける。
「がっかりです、先生。これほど先生に失望したことはありません。いやもう先生と呼ぶに値しない。俺をなめるのもいい加減にしろよ」
血が混じった唾を地面に吐き捨てる。狐目が瞬きを捨て、喉笛を噛み千切ることしか考えられぬ獣の眼となる。
真っ赤な感情が視界を満たした。血流が暴風雨のように荒れ狂い、耳鳴りは止まない。晋作は硬く歯を食い縛って『吉田松陰』を名乗る男から目を背けなかった。
「戦の
「箱入りが負け惜しみですか」
「ほざけ。この俺の魂に傷をつけようなど思い上がるなよ挫折者が」
嘲笑しながら晋作は値踏みするような目つきで松陰の瞳をのぞき込む。
目を見れば人となりが分かると師は言ったが、なるほど、この男の眼はがらんどうだ。死んだ魚の方がまだ生き生きとしている。
「俺が失望したのはな、ソレを生き恥と呼んだことだ」
晋作は燃え尽きることを知らぬ真紅の瞳を吊り上げる。天幕の澱んだ空気がぴりりと肌を刺す。
生き恥を晒すのは間違っても暴力を受けた者ではない。抵抗出来ぬ者に暴力を押しつける者こそが生き恥を晒している。人の痛みに酔える者の名は必ず閻魔帳に記載される。
「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」
自分の人生の指針。爪痕を残して華々しく死ねるときを何度、夢見たか。やり残しがあるならば生きることは決して恥ではないのだと幾度、慰めたか。
ただただ胸に渦巻く熱を持て余していたころ、何をすべきかどう生きるべきか思い悩んでいたころ、師が自分にくれた言葉というお守り。
遺言になってしまった言葉。
それを、それを――!
こめかみに脈打つ血管を浮かせた晋作は、憤怒で燃え盛る喉元から地獄を這うような声を発す。
「先生がくれた言葉の価値を落とすな……!」
あの日々を、あの想い出を、この男に否定されることだけは認めない。
晋作の怒りを真正面から受け止めた『松陰』は、ふっと頬を緩めた。
「……なるほど。確かに君を傷つけることはできない。どれだけ犯してもその眼が陰ることは決してないでしょう。だが――」
「ッ⁉︎」
『松陰』が晋作の胸倉を乱暴に掴んで爪先を宙に浮かせる。次の瞬間には背中を力任せに机に叩きつけられた。
「ぐッ!」
骨まで響いた衝撃に晋作の息が止まる。激痛が電流のように背骨全体を焼いた。
『松陰』が仰向けになった晋作の顔の横に手をつく。痛みで喉が潰れた晋作の顔に癖のある黒髪の帳が下りた。
「君を見る『僕』はどう思う?」
晋作を見下ろす男の瞳が、睫毛が触れそうな距離で瞬く。そこに愉快さはなかった。光もなかった。
男の大きな口が開き、晋作はわずかに身体を震わせた。
「君が陵辱され、慰み者になっていると知ったら、『僕』はどんな顔で君を見ると思う? 怒り狂うか。それとも汚物を慈しむか。どちらにせよ、変化は覚悟することだ」
『松陰』は誰かに頬を抓られたような笑みをする。
晋作は反吐が出そうだった。作戦の一つであった強姦が意味を持たない凌辱に移行し、役に立たない置き物はストレス解消のサンドバッグに昇格した。
こいつは、単に、僕か先生が苦しむ姿を見たいだけだ。
ランタンの温かな光を受けて男は嘲笑う。
「ただの余興だ。死体を吊るのも飽いた」
「マジで喋るなクソ野郎」
このまま股間に膝蹴りをかましたい。晋作は顔を歪めて歯噛みする。けれど予測しているのか、机からはみ出している爪先は地面に縫い付けるように、『松陰』の靴裏で踏まれていた。
「……先生は犯された僕をどうも思わないだろう」
「恐らくはそうでしょう。けれど、犯すのは誰とも知れぬ赤の他人ではなく、この吉田松陰だ。君の心に留め置かれた灯だ」
「――ッ違う! アンタがその名を名乗るな!」
「いいや。僕は紛れもなく吉田松陰だ。伝馬町獄にいたとき、君の差し入れは嬉しかった。ありがとう、晋作」
微笑んで言われ、晋作の血が沸騰する。その顔で、その声で、二人だけの想い出を語られたことに殺気立つ。紅玉の瞳に雷鳴のような怒りが走った。
晋作は手鎖に繋がれたままの腕を頭上から金槌の如く振り下ろす。だが、腕が届く前に易々と松陰に手で止められてしまう。
『松陰』が退屈そうに顔から表情をなくした。
「僕を
対話すればするほど男の瞳の星から人間らしい色が消えていく。残ったのは加虐の暴力装置。
音も無く轟々と燃え続けるだけの火を宿した『松陰』が形骸の笑みを浮かべる。
「吉田松陰はそれが正しいと信ずるならば人を殺すのも厭わない、過激で苛烈で
晋作は言葉を失う。間近で見た松陰の瞳はこれ以上にないほど正気だった。
がらんどうのくせに汚染も混濁も無い、純粋な業火を宿した瞳。光も色も何もないのに晋作は懐かしさを覚えたことにぞっとした。
不純物のない狂気。
この男は全ての尊厳を平等に踏み躙る外道でしかない。間違っている。間違っているのに、目の前の男はどうしようもないほど吉田松陰だった。
『松陰』が再び晋作の胸倉を掴んで身体ごと持ち上げ、今度は机の上でうつ伏せになるように上半身を叩きつけた。
「――ッッ!」
金属製の机が衝撃と圧力に耐えきれず不気味な鈍い音を出す。
机の上で晋作の胸部がバウンドし、肋骨が折れたような激痛に臓腑が逆流する。無意識に足枷のついた足が天幕の地面を蹴った。手錠で額を打ち、頭がぐわんと揺れる。
一瞬、意識が飛んだ。
気づけば晋作は額から血を流し、腰のベルトを抜き取られて袴を引きずり降ろされていた。胸と腹を押さえつけられ、机から突き出した腰が外気に晒される。
「あ――……、くそ、マジか」
悪態をついただけで肺が痛い。喉は鉄の味がする。
これから訪れるそれ以上の痛みに、晋作は目を瞑って舌を噛まないように歯を食い縛った。
ぶつりと縄を切る。
松陰は重力に従って落ちる白い布で包んだ遺体を、片腕で支える。ずっしりとした感触に思わず眉を寄せた。
人であった身体というには重く、誰かの家族というにはまだ重みが足りない。命は重いものだ。吊るされるほど軽くはない。
腰につけた命綱で布に包まれた遺体と自身の身体を支える。木の幹に足裏をつけて、ゆっくりと地面に降りた。
地上には悲痛に顔を歪めた村人たちがおり、松陰は今にも崩れそうな遺体を板の上にそっと乗せた。
辺りは悪臭が満ち、鴉さえも身を潜めた薄暗い林道に悲しみの声だけが響く。
松陰は林道に吊るされた遺体を木から降ろしていた。外套と上着を脱ぎ、青いシャツの袖で乱暴に滴る汗を拭う。服は黒ずみ、ズボンの白さは見る影もない。
特異点修復には関係ない作業だったが、食事も睡眠も必要ない松陰は時間を持て余していた。何よりも、泣きながら家族を見上げている人々の姿が見るに堪えなかった。
敵の襲撃はなかった。
村人たちから話を聞けば敵はある一定の距離までは進行できず、安全圏というものが存在した。だが、日を追うごとにその範囲が狭まりつつあった。
敵は丁寧に丁寧に周辺の村を潰している。丁寧に丁寧に殺しまわっている。幸いとは言えないが進軍は遅い。だが、こちらは斥候さえ出せない人手不足。敵の拠点も分からない以上、相手が打って出てくるのを待つしかなかった。
静かな怒りが松陰の腹で煮えている。鬼畜の非道に対する憤りだけでなく、それが自分自身であるという忌々しさ。あの身体を形が無くなるまで磨り潰しても嫌悪感は晴れないだろう。
遺体を板の上に乗せていた村の男たちが手拭いで汗を拭きながら、松陰に「先生、大丈夫ですかい?」と声をかける。藤丸とマシュが松陰をそう呼ぶので誰もが松陰のことを先生と呼んでいた。
「先生、ずっと働き通しでしょう。少しはお休みになってくだせぇ」
「いえ、僕は大丈夫です。少しでも早く家族の元に返してあげたい」
あと少しで全ての死体を降ろせる。
吊るされてるのは人の形をしているのかも分からない人だったものだ。嘔吐を誘発しかねない悪臭が身体にこびりつく。
けれど、松陰は血にまみれ肉にまみれ、まるで赤子を抱く繊細さで腐乱死体を抱きかかえる。
昼夜問わず行われているそれはまるで神聖な儀式だった。周囲にそう思わせるような崇高な使命感を瞳に宿した松陰の行いに、人々は悲しみだけではないものを目に溜めた。
遺体にすがりついて泣く人々の姿に、松陰の瞳がわずかに屈折する。のたうち回りたい苦痛に嘔吐しそうだ。
胸に深く刺さった釘が空に溶けた紅梅色によって更に強く打ち込まれる。松陰は思わず胸倉を掴んで眉を顰めた。手足が腐り落ちる方がまだマシだろう。
置いていかれたこの痛みに比べれば。
自分の元に帰らぬ人を想う。
置いていかれたのが悲しいのではない。置いていくとき、せめて、死にたくないと、帰りたいと、思っていて欲しかった。
手を離すのを望んだわけじゃないと、そう信じていたかった。
答えがないから決めつける。そうであって欲しかった願いは、いつしかそうであった現実へと簡単に置き換わる。
都合の良い偶像。成就してしまった呪い。
そうでもしなければ、悲しくて立ち上がれないからだ。
あの子はどれほどの長い間、胸から血を流し続けたのか。
松陰は手拭いで手と腕を拭き、なだらかな斜面に腰を下ろした。柔らかな草と澄んだ空が心地良い。相変わらず、眼前に広がる光景の中にあるはずもない春を探してしまい、顔が凍りつく。
松陰は振り払うように乱暴に手拭いで顔を拭った。
ふと、麓の方から二つの影が見えた。
藤丸とマシュが満面の笑みで松陰に歩み寄ってくる。その両手に抱えられた竹皮の包みに松陰は嫌な予感しかせず、藤丸は疲労のある眼でも夏の日差しのように笑った。
「おにぎり貰ってきました!」
「…………僕の分はいらないと言いましたが」
「申し訳ありません。宝具展開してもおばさま方の剛腕が無敵貫通してしまいました」
罪悪感とは無縁の笑顔でマシュが答える。食糧にも限りがあるため、食事を必要としない松陰は遠慮していた。が、「命の恩人にご飯もあげられないなんて!」と村人たちに号泣されてしまい、松陰は仕方なく受け取っていた。
こっそりと藤丸とマシュに自分の分を渡そうにも「あ、契約上もらえないんで」「私はダイエット中なので」とあからさまな嘘で断られ、松陰はここで意固地になるのは自分が子供じみていると観念のため息をついた。
水が入った竹筒も渡され、三人は青空の下、遅い朝食を取る。濃いめの味付けの野沢菜を具としたおにぎりが疲弊した身体に染み渡る。
「おにぎり美味しい! なんだろう、すごくお米の甘みがある」
「棚田米だからでしょう」
松陰が三口ほどでおにぎりを食べ終え、藤丸に答える。
「たなだまい?」
「棚田とは山の斜面などに階段状に作られた水田のことを言います」
マシュが両手でおにぎりを持ちながら説明する。
「棚田米はそこで作られたお米ですね」
「最初の戦闘地の斜面が棚田だったと思われます。大分荒れていましたが、村の人たちの話ではこの地域は棚田が盛んだったようですね」
「へー。写真で見たことあるかも。すごく綺麗だよね」
「はい。景観こそ美しいとされていますが、棚田は保水機能が優れているため、洪水調節機能により土砂崩れ防止が期待できます」
マシュのなめらかな説明が続くと、藤丸は「へー……?」と言いながら首をひねった。松陰が助け舟を出す。
「小さなダムの役割も持っています」
「なるほど!」
食べ終わった藤丸がぽんと手を叩く。松陰は素直に感心する。食べ盛りであっても食欲などわかない光景が続いていたが、藤丸はぺろりとおにぎりを平らげた。腹が減っては世界は救えぬ。
藤丸は指についた米粒を舐めとりながら、手の甲の令呪を眺めて、ぽつりと呟いた。
「…………この土地に何か理由があったりするんでしょうか」
「いつもと違う感じがありますか?」
「はい、足裏にぞわぞわと虫が這っているというか。血管にドロドロの血が流れて今にも詰まりそうというか」
「晋作は」
しまった、と松陰が勘づいたのは二人が息を呑んだ後だった。けれど言葉を飲み込む理由がないため、松陰は沈痛な面持ちをしている藤丸とマシュに顔を向け、言葉を続ける。
「……晋作は、何か言っていましたか?」
「……いえ、特には。ただ、オレが先生のそばにいた方がいいという確信があるようでした」
撤退後、松陰はひとりで晋作と別れた場所に戻ったが、そこには激しい戦闘の痕と焦土と化した地面しか残っていなかった。
だが、魔力パスは繋がっている。
晋作は退去していない。生きている。
彼のことだから上手く逃げ遂せたかもしれないが、圧倒的戦力差を前に時間稼ぎという大役を捨てるとは思えない。松陰は我知らず拳を作った。星の瞳がわずかに揺らめく。
――――敵であるもう一人の自分に捕らわれているかもしれない。
捕縛の動機は不明だが、その可能性の排除はできなかった。
かんかんかんかん。
突如、陣鐘の甲高い音が山中に響き渡る。静寂が引き裂かれる音を聞いて、全員が顔を上げた。
襲撃の合図だった。
「――鴉だ! 黒鴉が出たぞ!」
松陰と瓜二つの悪鬼を誰かがそう呼び始めた。訝しげな視線は最早ない。
人の
黒い雷撃が山肌を焼いていく。
岩が弾け、木々は焼け焦げ、砂埃が空を汚す。
「――やっぱり。松陰先生、簡易召喚いけます。でも長くは持ちません」
「よろしい。では魔力抵抗の高いキャスタークラスを召喚して下さい」
狂気を宿した部隊が進軍する。
血と骨で造り上げた道を行く百鬼夜行。先頭に立つは青みを帯びた黒髪と白い外套を靡かせる『吉田松陰』。
山の中腹を進軍しながら足元の虫を踏み潰す部隊の先に、不自然な霧が立ち込める。空は晴天。霧などあるはずもない。
白いもやは霧ではなく蒸気。響くはこの場所では有り得ない駆動音、けれど、常に有り得た未来。
足を止めた先、立ち込める蒸気の奥から赤い光が走る。影の異形。影の機関鎧が躍り出る。
【見果てぬ夢を此処に―
その背後から天高く舞い上がるのは影の竜。星を撃ち落とした優しき竜が咆哮をあげる。
【彼方への巡礼を―
蒸気機関による圧倒的火力に敵兵たちの抵抗など虚しく、灼熱の息吹で空が埋め尽くされた。
逃げ場などない大地に、トンと影の細い爪先が触れる。透明な波紋が静かに、光の速さで水盤のように広がる。静謐の極光。最果ての夢。夥しい数の疑似聖剣が星のように瞬いた。
影の水妃がいと美しき唇で「十分、楽しんだでしょう?」と声も無く笑みの形を作る。
【今は失われた、遠い夢を―
重量のある甲冑が紙くずのように宙に舞う。巨木を倒し、地面を抉り、災害のような魔力の津波に成す術はない。
本来ならば地獄の炎に焼かれるのと同じ一方的な蹂躙。けれど、砕けない。甲冑兵たちは手足がもがれようが甲冑の中身が灼けようが、統率する男に刃を届かせまいと盾となり続ける。
地面から、ぱりりと黒い稲光が走った。
一瞬にして辺りが黒く光る。次の瞬間、大地を揺るがす轟音が連続して響き渡る。
影の機関鎧が、影の竜が、影の水妃が黒い雷に切り裂かれ、貫かれ、雷撃に飲み込まれて霧散する。
影の水妃が忌々しげに口の端を歪め、消え去る寸前にたおやかな手を振り上げた。
天からの砲撃。
だが、『吉田松陰』に届く前に黒い雷撃が砲撃に命中する。火の粉に似た赤い魔力が大気に飛散し、男は屍となった兵を踏みつけて前に進む。
霧が、蒸気が、晴れる。
『松陰』の目の前に、白い鴉が羽を広げたような
「オオオォオオォッ‼」
松陰の踏み込んだ足が地面にめり込む。歯を食い縛る。およそ剣術とは思えぬ鋭さを無くした刀を振り被る。
斬るのではなく叩き潰すことを目的とした一撃。
二人の男が合わせ鏡のように戦場で向かい合う。にたりと笑ったのは、『松陰』だった。
振り下ろした刀と振り上げた刀が激突する。戦車と戦車が正面衝突したような衝突音。けれども互いの刀は軋んだだけで壊れず、互いの腕の骨がひび割れる。今更そんな痛みを受け入れている暇はない。
松陰は畳み掛けるように刀を振り続けた。もっとも警戒すべきはあの黒い雷撃だが、広範囲攻撃である限り、超接近戦ならば自身さえ巻き込むので打てないはず。
刀を打ち合う度に身体のどこかの骨が砕ける。一撃一撃が英霊としての限界を超えている。それでも止まる機能は最初から搭載されていない。
狂気の理性が刀にたやすく命を乗せる。
ひび割れて曇った鏡に映るのはまともではない笑み。自分を殺せるという禁忌を前にして確かに心躍る。
瞬間、松陰の死角から何かが飛んでくる。
目の前の男が笑った。『松陰』の袖から飛び出した短刀が眼前に迫る。だが、松陰は無表情のまま短刀に目もくれず、足を踏み込んで刀で男の目を狙った。
もしも恐怖か驚愕に足を止めていたら、深々と頭部に突き刺さっていたであろう短刀は松陰の側頭部を削るだけに終わる。
「……暗器か」
男が後方へ飛び去って間合いから外れ、松陰はぽつりと呟いた。側頭部から血が滴り落ちて首と肩を濡らし、眼鏡のつるが割れる。ちょうど短刀が当たったらしい。
松陰は壊れた眼鏡を投げ捨てた。
暗器とは隠し武器。本来ならばアサシンクラスが多用する武器だが、『松陰』は生前使っていた武器など関係なく使用するようだ。――あるいは、生前も卑劣な手を使っていたのかもしれない。
涼しげな顔をしている『松陰』が小さく笑った。
「あまり動揺が見えないな」
「戦場であれこれと考えるのは不得手です。『僕』ならばその理解はたやすいでしょう」
「確かにな」
『松陰』が曲刀の柄をくるりと回す。器用な真似を、と松陰は感心した。
「教え子が生きていることは分かっているだろう。気にはならないのか?」
「生きているのなら良し。たとえ命を散らしたとしても僕のやるべきことは変わらない」
松陰は雷撃が来る前に距離を詰めて刀を振り上げる。この場でそのどす黒い腹に刀を突きたててやりたいが、体格は同じでも獲物が違う、魔力量が違う。打ち合う斬撃が砕けた骨に更に衝撃を与え、松陰は苦悶の表情を浮かべる。
振り下ろされた禍々しい曲刀を刀で受け止めると、松陰の足裏が地面に沈む。魔力の圧で臓腑が潰れそうだ。
必死に耐えている松陰に更に圧力がかかる。
「――――――」
傲慢な笑みを浮かべた『松陰』が口を開いた。
予想していた言葉だ。
手のひらで踊る虫を握り潰した時のような声音だった。
魔力パスが切れていないことから、晋作が退去していないことは理解している。そして、男から聞かされた言葉は晋作の生存と尊厳の解体を意味するものだった。
女子供が逃げ切ってからの蹂躙。自身の兵が弾け飛んでも眉一つ動かさぬ冷徹さ。
そんな男が晋作に何をするか容易に想像できた。戦の生業だ。尊厳の略奪も命の凌辱も食事を取るように必須で行われる。
敗者が椅子に座る権利はなく、勝者のみが敗者を椅子にしていい。
松陰に動揺はない。何を言われても、晋作がこの男に何をされていても、松陰は凪のような冷静さを保っていた。十字の星に陰りはなく濁りもなく、ただそこで瞬く。
たかが弟子が凌辱されている如きで狼狽えるような慈愛は生憎と持ち合わせていなかった。
ふ、と松陰が刀を握る手を離した。
「――ッ!」
動揺を見せたのは『松陰』だった。せめぎあいをしている最中に刀を落とすなど自殺行為に等しい。万力の力を込めていた『松陰』の身体が僅かに前のめりになる。
松陰は身体が二つになる覚悟で相手の懐に飛び込む。
松陰は男の曲刀の柄と峰に手を置いた。男の眼が驚愕に見開かれる。器用な真似だろう? と松陰は笑みを浮かべた。
松陰が力を入れれば、くるり、と『松陰』の手から曲刀が難なく離れる。
無刀取り。剣術の極意。
相手が握った柄を支点とした単純なテコの原理だが、強靭な、或いは正気ではない精神でもなければ成し得ない捨て身の技。
英霊の身であろうとも人体構造に変わりはなく、物理の原理も変わらない。
松陰は曲刀の峰を掴んで切っ先を下から上へと振り上げる。
相手の判断は早かった。咄嗟に身体を後ろへと反らせる。だが、すでに用済みの曲刀から手を離した松陰の拳が自身と同じ顔を殴る方が早かった。
ごしゃり、と骨が爆ぜる音。柘榴の粒のような血が飛ぶ。
松陰は身体の重心を低く下げ、足を踏み落として凶拳を放つ。竜巻のような猛連打。
殴った方の拳の皮膚が破ける。手首の骨が折れる。
けれど超接近戦で斧のような肘打ちが炸裂し、槍のような打撃が男の身体を抉る。
嵐から逃れるために血だらけの『松陰』が身を引こうとするが、松陰はその足の甲の骨を砕く勢いで踏みつけた。
松陰は動揺ではなく激昂に歯を食い縛る。冷静さの裏には般若のような怒りがある。身体中の血が沸騰して骨すら焦げ付かせた。
人を人とも思わない異常な凶悪さに晋作が凌辱されようとも、松陰は何も思わない。ただ、
――――死んでも殺す理由が増えただけだ!
身体も心も血まみれの獣が咆哮する。松陰が真下に足を踏み込むと地面がひび割れた。
拳を引き戻すより前に真下から拳を突き上げて男の顎の骨を砕く。松陰の下肢は急激な旋回に耐えきれず筋が引き千切れる。
身体の外も中も粉砕機の内側のような惨状。けれど灼熱を宿した瞳は凄惨なほど燃えている。
呼吸など邪魔だ。必要なのはこの手で殴り殺してやるという殺意だけ。
瞬間、ぱりりと足元から黒い光が弾けた。
――――ドンッ!
黒い雷撃が地中から天を貫く。
「ぐぁ゛ッッ!」
松陰は瞬時に後方へ飛んだが、黒い雷撃が身体を突き抜けた衝撃に身体が浮く。松陰は受け身を取って立ち上がり、焼け焦げた半身を思わず手のひらで掴んだ。
深い針山に全身を貫かれたような痛みに呻く声が抑えられない。ぶすぶすと肉が焦げる音と煙が傷の深さを物語る。
「ははははハはハハハハはハはッッ!」
顔の半分が炭化した『松陰』が笑い狂う。飛び出た目玉がぎょろりと動く。
自分を巻き込んでの雷撃。痛覚と人間性を捨てた悪鬼の哄笑が木霊する。
松陰はギリと歯を食い縛った。一対一では到底勝ち目がない。藤丸の簡易召喚では押し切るための力が足りず、マシュは守るための戦いを得意としている。あと一人、いや、あと一騎の英霊さえいれば勝機が見えるというのに。
『吉田松陰』は凶相を浮かべて楽しげに笑った。
「さぁ根競べだ! 殺してくれと誰が最初に言い出すか!」
松陰は神経が灼けて動かせない手足を無理やりに動かして、男の眼を見た。
ばつん。
一瞬、朽ちかけた縄が弾け飛ぶような衝撃が松陰の脳内に走る。なんだ、今の光景は。
見覚えのある、いや、見たことのない風景が脳裏を掠めた。自分のものではない記憶。誰かの濁った心象風景。松陰は動揺と吐気を飲み込む。
目の前には、全てを業火の焔で焼き尽くしてもまだ足りぬと飢え、火だるまになりながらも前へと進む男が笑っている。
それは確かに憎しみだった。
口の中に溜まった唾液を飲み込む機能は失われた。
机に突っ伏している晋作は身体を揺さぶられる度に口の端から唾液をごぽりと垂らす。一纏めにされた手首は金属製の手錠で擦れ、皮膚が削り落とされて絶えず血が滲んでいた。
感情はとっくに失われている。そうでなければ昼夜問わず行われる交尾以下の拷問に耐えきれるはずもない。
ずっと理由のない暴力に犯され続けてる。
「――あ゛、ッ、ッ、ぐ……ぁッ」
金属製の机の上には短刀が突き刺さっていた。それは晋作の手錠の鎖に食い込み、逃亡を許さない。
晋作は胸と腹を机につけており、下半身は蔦植物のようにだらりと机の下に垂れ、後孔からは白濁の液が溢れている。
骨ばった指が晋作の腰を掴み、無理やり持ち上げられる。黒く汚れている指先は晋作の腰にくっきりとした指跡をつけた。
背後から杭を打ち込むように内臓を突き上げられ、乾いた血がこびりついた額は机に擦れて吐気がこみ上げる。足首にも付けられた鎖がじゃらりと鳴り、規則的に肉杭で穿たれる度に舌を出した顔が逃げるように前方へと這う。
髪の毛を強く引っ張られ、鬱血した痕が残る首が仰け反った。
「ぎッ……ッ、――ッ、い……ッッ」
喉から何かが出る。喘ぎではない、叫び続けて壊れた声が奇妙な塊として喉から溢れる。慣らされもせず肉杭を穿たれた後孔は血と精液で塗れ、赤く腫れた孔の中を凶器が容赦なく行き来する。
度重なる汚辱行為に晋作の瞳は濁りはじめた。宝石のような紅玉は失われ、そこには青みを帯びた漆黒が淀んでいた。
冬の終わりに咲く魁は春を待たずに枯れてしまった。
机の上に広がるのは絹のような紅梅ではなく、鴉のような黒髪。背後から機械じみた動きで肉杭をただ打ち付けるだけの男の髪と同じ色。
天幕に虫の息が満ちる。
底が尽きた霊基が汚される。穢される。精液という濃度が高い魔力を注がれ続けて魂までもが凌辱される。机がガタガタと音を立て、奥まで貫かれる身体が前後に激しく揺れる。
泥の中で溺れているかのような息苦しさと不快さに吐いた。
……間違っているのは自分の方だった。
偶像に縋りついた日々。墓前に話しかけるだけの日々。そうでもしなければ心が砕け散りそうだった。
生前、受け継いだ志と夢見た明日のために死ぬことなど決して怖くなかったのに、眠る度に死ぬ想い出に布団の中で恐怖した。
あの人が彼方に零れ落ちていく。あの人が忘却に蝕まれていく。過ぎる時間に姿が声が匂いが奪われていく。
耐えられない。耐えられるわけがない。
あの人が死んでしまったことが今でも悲しくてたまらないのに!
だから泣きながら穴ぼこだらけのあの人を塞ぐ。塞ぐ。塞ぐ。散るな。散るな。散るな、とあの人が見ることのなかった春の下で蹲った。
出来上がったのは自分のための偶像。塞いでいる時だけは、吐き気がするぐらい汚れた骨を思い出さずに済んだ。
晋作の体内にどろりとしたものが注がれる。たぷん、と身体の奥に黒いものが満ちる。肉杭が引き抜かれたかと思えば、一気に最奥まで貫かれ、その衝撃で弾けるように顔が跳ねた。喉奥に溜まっている血混じりの吐瀉物で溺死しかける。
下半身はとっくに焼け爛れているのに、目の奥が寒くてたまらない。苦痛を耐えるために噛み続けた舌はズタズタだった。
凶器による内臓の摩擦は人格と魂を削げ落とす。腰を掴む指が食い込んで腰骨を砕き、晋作は断末魔のような短い悲鳴をあげた。
「ォぇ゛ッ――ぐッ、ッ、――げ、……ッッ」
焼けた金属棒じみた肉杭で何度も何度も激しく内臓を突かれ、ようやく痛みを嘔吐していることに気づいた。
痛いのか。僕は。
晋作の口がねじれる。焦点の合っていない虚ろな瞳。それは笑顔とは程遠いものだったとしても、笑えて仕方がなかった。
回数を数えるのが馬鹿馬鹿しくなるほど犯されている。『松陰』が天幕にいない間に失神することだけが許され、サンドバッグの方がまだ道具として丁重に扱われる。
瞳や髪だけでなく、意識も黒く染まりつつある。矜持も志も想い出も何もかもがタールの海に沈んでいく。
敬愛する師に、人生の恩師に、恐らくは何処かで致命的な選択をした『吉田松陰』に、性欲処理以下の扱いをされている。
女のようなまろい輪郭はなく、食い甲斐の無い固そうな身体だ。濡れるような蜜壷はなく、排泄器官を模した孔しかない。
尻を揺さぶられて鎖を鳴らすだけの壊れ果てた身体。無抵抗の身体に精液を注がれ続け、髪も瞳も黒みを帯びて、あともう少しで魂も黒く染まって操り人形と化す。
黒く濁った瞳の高杉晋作をカルデアに敵対させ、
弟子を凌辱し、使い捨てにする師など万死に値する。だが、信ずる道のためならば尊厳を犯す行為など虫を叩き落とすが如き。
恐らくはそういった残虐性はカルデアに召喚された吉田松陰にもあるのだろう。正確には、無いとは言えない。
惨めなもんじゃないか。
晋作は最後の力で笑った。敵に捕らわれ暴力で遊ばれていることではない。自分は敬愛する師のことを何も知らない。
『自惚れるなよ、恥晒しが。たかが二年の時しか過ごしていない君に何が分かる』
その通りだ。何も知らない。何も分からない。なぜなら、だって、どうして、だって、だって。
――――勝手に、勝手に死んだくせに!
何を分かれと言うんだ!
……これは現実との乖離を認められず目を背け続けたツケなのか。いつの間にか都合の良い想い出を餌とする傲慢な獣に成り果てていた。
縋りつくほど弱くはないと思っていたのに。
何も成せなかったのに、何かを成したと思い込みたかっただけじゃないのか?
信じた志も、夢も、明日も、自分が作り出した偽物にしか過ぎないんじゃないか?
ありもしない星を追い続けた日々。
それだけしか、自分にはないんじゃないのか?
「あ゛、――ッえ゛、――ぎ、――ア゛」
枯れ葉のような音しか出ない。思考が黒く塗り潰される。血で滲んだ視界の端に映るのは枯れて黒ずんだ魁。終わりなのか。ここで終わるのか。
痛みさえも奪われていく。
足の、踏み出し方が、分から、ない。
『吉田松陰』の撤退はいつも気まぐれだった。
互いに決定打がないまま戦闘を繰り返して三日ほど経つ。松陰と藤丸達は敵が進軍するであろう地域に訪れて村人たちに逃げるよう指示を出したり、生き残った人々を安全な場所に送り届ける日々を送っていた。
合間に敵の拠点も探そうにも手掛かりはなく、『吉田松陰』との戦闘は黒い雷撃のせいで松陰以外は近づけない。戦いが終われば立つこともやっとな状態では後を追うことも出来なかった。
だが、この特異点において松陰の霊基修復が異常なほど早いのは光明だった。黒い雷撃は戦うたびに威力を増していたが、松陰の修復速度も増していた。
晋作を生かしておく理由。人質にしては交渉がない。撒き餌か生贄のどちらかだろう。ならば、なおさら無策は無謀だった。
だが、日を追うごとに藤丸の顔が曇っていることに松陰は気づき、作業の合間に松陰は藤丸だけを呼び出した。林道の木の影で向かい合わせに立つ。
「すみません、マスター。……マシュ君の耳に入れたくない話題でして」
「――。はい、お願いします」
藤丸の眼が鋭くなる。松陰はまだ子供の面影が残る若者にこんなことは言いたくないが、と自身に弁明して慎重に口を開いた。
「……晋作は恐らく敵地で陵辱されている」
藤丸の顔が固まる。その言葉の意味を理解するにつれ、真っ当で純粋な怒りが瞳に浮かんだ。松陰は手をあげることでその怒りを制す。
「晋作がそれに耐えられぬというのならとっくに自害しています。だが、魔力パスが繋がっているなら理由があって受け入れているということです」
「は、はい……。その、実は、高杉さんと魔力パスは繋がっていますが、弱くなっているというか、何か違うものが混じっているんです。感じ取れるだけで、何も出来ないんですけど……」
藤丸は自身の令呪を指でさすり、ぐっと拳を握りしめた。
この若者は今まで己の無力さをどれほど噛み締めただろうか。それに慣れる日は決して来ないだろう。
人類最後のマスターが、自分が憂いた未来の先で生きている若者が、ごく当たり前にこの世で最も尊い価値観を抱いていることに松陰は少し安堵する。
「マスター。君に話したのは必要だからです。近距離でなければ君の令呪は発動しない。つまりは、敵陣でその場面に足を踏み入れる時が来るかもしれない」
「はい」
「その時、君は戸惑ってはいけない、哀れんでもいけない。一秒たりとも迷う暇なく行動しなければならない」
松陰は藤丸の肩に手を置いた。感情豊かな藤丸に情を捨てて決断を優先させろと言うのは酷であることは承知の上だ。だが、戦い続けた若者を憐れむことは何よりの侮辱に他ならない。
「やるべきことをやる。それは君のもっとも得意とすることだ」
見上げた空の高さに決してあきめることはしなかった若者は、しかと頷いた。
藤丸との話を終え、松陰はその場に佇んでいた。そういえば久しぶりのひとりの時間であることに気づく。
不意に足元が揺れた気がして、松陰はそばの木に手を当てて身体を支えた。黒髪が項垂れ、身体がずるりと地面に崩れ落ちそうになる。
うなだれたまま、松陰は木の幹に爪を立てた。
――――ビギッと木の幹が割れる。
みしみしと万力の力を込めた指が木に食い込む。爪が剥がれ血が滲む。砕ける音は木の幹と松陰が食い縛った歯の音だった。
身体の内側が怒りで延焼している。皮膚の下で炙られ続けた肉と骨は灰になる寸前だ。
うつむいた松陰は口端を歪めて憤怒の形相をする。
あの時、何をもってしても自分がもうひとりの自分の首を落とすべきだった。
気高い魂を持ったあの子が陵辱されていると考えただけで、足が千切れても駆け出したい衝動に駆られる。けれど敵陣の位置も分からず探索の手段もない。撒き餌であるならば不用意に突撃して全滅だけは避けたい。
何より、守りながら庇いながらの戦いは自分に向いていないことを痛感してしまった。
分かっている。
必要だと感じているからこそ、あの子は歯を食い縛って耐えている。救出を待つだけの大人しい教え子ではない。そのために何をされても矜持も魂も傷つかないことは明白な理だ。
耐えて生き抜いたことに、賞賛はあれど哀れみはない。
あの激動の時代を駆け抜けた教え子の価値は宝石のように今も輝いている。生涯をかけても届かぬ紅玉の魂は燦然と尚そこに。
分かっている。
分かっている。
分かっている!
だが、犯しているのがよりにもよって自分自身だという事実に何度吐いたか。
鏡に映った己ではない己。憎悪で濁った瞳。軽蔑を含んだ星。その奥底にあるのは沼底の泥だ。誰も征く道のないしるべ。
何処かで致命的な選択をした平行世界の自分。その選択をするまでにどれほどの血が流れたのか想像に容易いが、理解は出来ても承諾だけは絶対に出来ない。
誰が許しても己自身だけは許してはならない。
あれと同じ血が流れているというだけで胸を掻きむしって霊核を抉り出したくなる。ましてや、自分以外の手があの子に触れているというだけで血がのたうち回る。
嫉妬などという生温い感情ではなく、全てを灰に帰すまで許さぬほど胸を焦がし続ける怒りだけが、冷酷な理性を保たせている。
止まることも、逃げることも、絶望さえできない。
正気を上回る狂気は安寧の時間を決して許さなかった。
タールの海に身も心も沈む。身体中にへばりついた泥に頭さえあげられない。肺まで満たされた見苦しい憎悪がごぽりと泡を立てる。
最後の息。
高杉晋作という霊基は魂の底まで犯された。
…………けれど。
太陽の光が遮られる。空は灰色に覆われ、雲が沈黙を保つ。山は異様なほどの静寂に包まれていた。
蹂躙という戯れから帰還した『松陰』が天幕で見たものは悲惨な肉片だった。
黒く染まった花の魁は何処にもおらず、その欠片が血塗れであちらこちらに散らばっている。
手錠と足枷は夥しい血で濡れているが破壊されておらず、肉片だけがこびり付いている。重たいはずの金属製の机は横倒しになっており、短刀は血まみれだった。
天幕の出入り口の地面には引きずった、いや、這いずった血の跡。それは天幕から近くの茂みまで続いていた。
『松陰』は冷酷な瞳のまま静かに兵に告げる。
「…………捜索を。この傷では遠くへは行けないでしょう。見つけ次第、殺して構いません」
兵に指示を出す。
どこにそんな力が、と男は手錠にぶら下がる細い指先を見下ろして呟いた。
天幕を出る。
山の斜面の上にある『吉田松陰』の拠点に鉛を張ったような重々しい暗雲が姿を現す。
雨も降っていないのに地面はぬかるんでいる。この土地はずっとそうだった。血と怨嗟で濡れている。
茂みの向こうには低木が立ち並んでいる。逃げるならそちらだろうと『松陰』は足を向けた。
すると、三味線の音が聞こえた。
魔力を乗せているのか不自然なほど山中に響き渡る。目立ちたがり屋の傲慢不遜な音色。
眉を顰めた『松陰』は兵を連れて音がする方に進む。
低木の向こう、開けた場所に、それはいた。
血溜まりの地面に黒い髪の幽鬼が血染めの羽織を肩にかけて座り込んでいる。
三味線を持っているがやたらと長い羽織の裾で手元は隠れている。足もまた同様に袴で見えない。
つまりは見た目では手足がない。
俯いた幽鬼の青みを帯びた黒髪の隙間から青白い瞳がのぞく。
そこには意志があった。
強さがあった。
瞳の奥で砂粒ほどの紅玉が輝いてた。
タールの海で魔力に焔が灯る。
最後の焔だ。
だからこそ、消えなかった。消したくなかった。
たとえ、偶像でも偽物でも、決して消えなかったことだけは本当だ。
たとえ、この身が朽ちてもあの星だけは消させない。その祈りのために戦い続けた。
これはあの人からもらった、
決して最後にさせないための原動力なのだから。
分厚い雲の向こうで輝く星の気配がする。
「……どういうつもりだ」
先生と同じ顔に一泡吹かせるのは実に面白い、と晋作は血まみれの口でけらけらと笑った。
「おや? 先生ともあろうお人が恥晒しの意図さえ読めぬとは。さすが吉田松陰の成り損ない」
一瞬、『松陰』が眉を顰め、晋作は嘲笑した。
敵兵が統率された動きで晋作を取り囲み、銃を構える。
晋作は気力で意識を保つ。歯の根が震えるほどの寒気を口の端を歪めて笑い飛ばす。血も魔力も肉も骨も足りないが、気骨で身体を支える。残念ながら慣れたものだ。血塗れで戦うことには。
「僕は松下村塾の落ちこぼれ、奇兵隊の無能な指揮官。そして、今は役立たずの影法師」
骨で三味線を鳴らす。手足はない。拘束から抜け出す際に歯で肉を噛み千切って骨をへし折った。
紅梅の髪は男の魔力に犯されて黒く変色している。呼吸すら危うい無残な姿。本来ならば現界していることすら奇跡。
晋作はいつものように、にやりと笑う。
「だけど、惨めな僕にだって、譲れないものぐらいあるのさ」
――――間違っていた。
何もかもを間違えた。偶像という幻に縋り続けた日々が愚かだったとしても、胸に宿る灯が敬愛という感情だけではなかったとしても。
忘れていくのは己が弱いせいだと勘違いした。足を踏み出すたびに想い出が掠れるなど錯覚だった。
返事のない偶像にしがみついてでも、成さねばならぬことがあったのだ。
どんな間違いを置き去りにしても、信じたものがある。
あの日々に炉心の命を燃やし尽くした。
それだけしかなかったんじゃない。
それだけでよかったんだ。
底なしの海の底でも、永遠に続く地獄の底でも、たとえ自分自身を見失ったとしても。
「師が遺した道を邪魔する者は誰であろうとも薙ぎ払う!」
あの星だけは見失わない。
失えない。
それこそが己の原動力。
晋作は腹の底から魔王のような声で叫んだ。
「維新回天の
「ッ! 魔力なしで何が出来る!」
「いいや、十分にあるさ――アンタの魔力がな!」
【
晋作の青みを帯びた黒髪が魔力で放電し、大気が痺れる。まるで一筋の彗星のように魔力が天高く届いた。
晋作を取り囲んでいた兵達の銃口が一斉に『松陰』に向けられる。
晋作の身体に満ちる魔力のほとんどは『吉田松陰』のもの。晋作の魔力と混じった魔力は大気を通じて『松陰』を崇拝する兵達の脳髄に届く。狂気という名の盲信。それが今、晋作の手中にあった。
紅色の口元が吊り上がる。
「撃てぇ!」
数十丁の銃口が一斉に轟音を鳴らす。戦場に煌めく綺羅星の如き弾丸に『松陰』の反応が遅れる。
曲刀を構えるもすでに遅く、小玉のような散弾は『松陰』の身体に容赦なく食い込んだ。
一瞬で外套が穴だらけになり、庇い切れなかった腕と脚からは実が破裂するように血が飛び散った。『松陰』の膝が折れかける。
「……ッ!」
「突撃!」
晋作の号令と共に純粋な暴力が一直線に男に襲いかかる。刀を振りかぶった甲冑兵など物ともせず、『松陰』は体勢を立て直し、横薙ぎに曲刀を振って自分の兵を両断する。
断末魔の悲鳴もなく倒れる兵の背後からエレメントが詰まった火炎瓶が大道芸のように宙に舞い、火花と共に男の眼の前で炸裂した。
「ぐっ!」
「ははっ! らしい顔になってきたじゃないか!」
ずっと澄まし顔だった男の顔が不快げに歪んだのを見て、晋作は高らかに笑いながら地面を蹴って方向転換する。残りの魔力量では足を修復するだけで精一杯だった。
塵の山を突き崩すように『松陰』が晋作を追う。自身の兵の首を落とすのに躊躇いはないが、どう見ても数が多すぎる。晋作は予め地面に設置してあった火炎瓶を蹴り飛ばす。
閃光。爆音。ガラスの破片が飛び散る。
それでも男は愚直なまでに晋作に向かって駆け出そうとし――、
前に踏み出した『松陰』の足が、膝までズボッと地面に沈む。
「なッ⁉︎」
驚愕の声と共に『松陰』は咄嗟にぬかるんだ地面に両手をつく。晋作はにたりと笑った。古典的だが嫌いじゃないのだ。
男が踏み込んだ足元には魔力の痕跡もない
『松陰』の屈辱を噛み締めた顔を見て、晋作は卑小な充実感にほくそ笑む。拘束から抜け出した後、口に咥えた刀で地道に地面を掘った甲斐があるというものだ。
「泥がお似合いですよ先生! 第二射、撃てぇ!」
再び一斉射撃。轟音。一人の男に対して明らかな過剰戦力。『松陰』は落とし穴から抜け出し、鬼神の如き戦いで刀を振い続けるも晋作の嫌がらせに翻弄される。
多勢に無勢。卑怯で結構。勝てば官軍だ!
唯一の懸念はあの黒い雷撃だが、ここまで追い詰められても『松陰』はその素振りさえ見せない。
(やはり――ここで雷撃は打てない!)
晋作が一人でもやると決めた理由。
地中からの雷だろうとも、たまったエネルギーを放出する現象であることは変わらないはず。
恐らくはこの土地の階段のような隆起の地形が大地に含まれたもの――黒い雷の元となるものを徐々に下へ下へと染み込ませている。
それは『松陰』の霊基に反応して雷撃となって全てを灼く。
最初の戦闘も斜面の下に降りてから雷撃が走った。
だが、『松陰』の拠点は斜面の上。戦術的に見晴らしの良い場所を選んだのだろう。万が一、ここで雷撃を打たれたとしても下方ほどの威力はないはず。
地形と目視が条件。ノーアクションではあるがノータイムではない。いかに聖杯保持者であろうとも魔力の上限はある。
黒い雷撃を見たのは一度だけ。
だが、一度見れば十分だった。
高杉晋作は初見殺しを生き抜けば次からは百の手札を切れる。ありとあらゆる対処を頭に浮かべ、最適解を実行に移す伶俐と胆力を併せ持つ破天の麒麟児。
諸悪の根源を仕留めるには今が絶好の機会。奇襲からの立ち直りはいくら『吉田松陰』であろうとも時間がかかる。
それでも晋作は血走った眼で攻撃の手を緩めない。相手は狂気の怪物。息をしてる間に反撃される。
『松陰』の瞳に宿る狂焔がこちらを捉えるたびに背筋が凍る。必ず殺してやると眼が語っている。晋作は恐怖でひひっと笑った。
――――面白い!
狂気が再開され、笑いの発作が止まらぬまま、晋作は狂兵を操り続ける。
弾丸の集中豪雨。血潮の狂乱怒濤。
ぼたたっ、と滴り落ちた血は広範囲に渡って地面に染み込む。むせ返る血の臭いに男の鬼気迫る呼吸が混じった。
穴が空いた『松陰』の外套は鮮血で塗れ、その中身はどれだけ抉れたのか。だが、痛みなど微塵も感じさせないのは返り血と己の血で濡れた業火の星。
『吉田松陰』は全ての兵達を返り討ちにし、勝者として曲刀を構え、片膝をついた状態で晋作を睨んでいる。
晋作は口の中で舌打ちをした。
(ここまでやって片膝をつかせる程度か!)
『松陰』の魔力がほとんどとはいえ、僅かに残っていた自分の魔力も大盤振舞しての一騎当千。宝具による今回限りの強化。一兵一兵が英霊並みに身体強化された部隊。それをたった一人で薙ぎ払い、斬り捨て、叩きのめしてしまった。
晋作は笑った。
身体の内に溜め込んだ『松陰』の魔力さえも使い切って、青みを帯びた黒髪は今や染まる前の絹糸のように真っ白だった。はらはらと流れ落ちる静かな白い髪が血色を失った晋作の顔にかかる。破調の美しさがそこにあった。
魔力は在庫切れ、引き千切った手は修復できず、加えて敵地のど真ん中。全方位から見ても万策尽きた絶体絶命。
それでも晋作は笑った。
敵に弱みを見せるなど流儀に反する。
「お見事。まあ吉田松陰を名乗るならばこれぐらいはどうにかして頂かないと」
「………………」
肩で荒い呼吸している男の返事がなく、晋作は胸中で首を傾げる。『松陰』は血脂に塗れた刀を正中線で構えている。肘に溜まった血が地面に落ちた。
手負いの獣のような息をしている男は口元を結び、赤い液体が眉間から険しい顔に幾筋も流れ出している。
異常なまでの鋭い眼光に晋作は違和感を覚える。
(いや。正直に言えば、僕は指一本動かせないほど消耗してるんだが。そんな僕を警戒? なんで……――ッ!)
にたりと晋作は笑った。『松陰』が遠目にも僅かに緊張するのが分かった。
「超級維新……」
宝具詠唱。だが宝具どころか身体を維持するだけの魔力も尽きかけている。
けれど湧き上がるのは場違いな高揚。背徳感さえ覚える名誉。飛んできた小石に当たっただけで消滅しかねない身体が馬鹿みたいに燃え上がる。
「特型キ械兵、参式超重戦車」
高杉晋作ならばこの戦況さえも引っくり返す。
この場にいる誰よりも、自分自身よりも、『吉田松陰』こそが高杉晋作を信じている。なんてこった。これ以上にない賛辞じゃないか。
魔力を失うほどの雪のような白髪、千切れた手足、血まみれの羽織。それでもなお、なお、高杉晋作はこの戦いを勝利に導くと業火の星が確信している。
喀血を飲み込む。ここ一番で全てを台無しにする生前の因果。布石は全て打った。命の賭けどころならば誰にも負けない自信がある。
雌雄を決するのは自分ではなく、星の明かりを頼りに地獄を歩む旅人。
遠くから聞こえていた馬の蹄の音が間近まで迫る。木々の間から飛び出したのは鞍をつけた馬。その背に跨った若者の手の甲が光り輝く。
「――令呪を持って命ずる!」
ギィン!
「
魔力が流れ込むと同時に宝具を撃つ。
晋作の雪白の髪が一斉に紅梅の花を咲かせる。百花繚乱。花々の波。戦場に咲き乱れる絢爛な赤い髪が、歌うかのように灰色の空を跳ね除けた。
土から迫り上がる古き神を模した巨大兵器。その真横を巨躯な馬が疾走する。
「でかした、藤丸!」
「無茶すぎますよ高杉さん!」
魔力が戻った晋作はなかった手を魔力で修復し、速度を緩めない馬の鞍を掴んで手綱を握る藤丸の背後に飛び乗る。
『松陰』に宝具が直撃する寸前、晋作は操り糸が切れた敵兵達が肉の盾となる姿を捉えた。
(躊躇いもなしか!)
舌打ちをする。この戦の想定外は『吉田松陰』の兵たちの抵抗が激しく、操り人形にするには魔力を消費しすぎたこと。仕留めきれなかったが兵力を削ぐことはできた。それでも成功に酔うのはまだ早い。
晋作は紅梅の髪をたなびかせ、馬に乗りながら振り返って笑った。男が屍の山にいる。
「おさらばです! 次こそはその首、貰い受ける!」
乗馬が上手いじゃないか、という晋作の軽口に対して藤丸は必死な形相で「無理無理! この馬、先生の言うことしか聞かない!」と絶叫し、晋作は代わりに手綱を握ってやった。
なるべく山の斜面の上を駆ける。雷撃が届かないとは限らないのだ。
藤丸から話を聞けば、晋作の三味線の音が届いたことと、天まで届く魔力の柱である程度の居場所をつかめたらしい。晋作は今更ながらうまくいったことに安堵のため息をついた。
だが途中、敵の襲撃に合い、松陰が指示を出して藤丸だけを馬で駆けさせた。神速を貴ぶ松陰らしい指示だ。全員で来ていたのならば恐らく間に合わなかっただろう。
合流地点は麓近くの安全圏。マシュと合流出来たが松陰がまだ戦闘中らしく、晋作は藤丸をマシュに託して駆け出した。
山の木々の影が緋色の空に浮かび上がる。日が暮れかけていた。
晋作は遠くに剣戟の音を聞き、更に足を速めた。木々の向こう、砂埃だらけの外套を羽織った松陰の姿が遠くに見えた。
黒髪が横に流れて晋作の方へと振り返る。火神を宿した十字の星が真っすぐに晋作を射抜いた。
「晋作!」
戦場でもどんな時でもよく通る澄んだ声。
間違えようもない声音に、晋作は思わず顔を緩ませた。嗚呼、好きな声だ。世界で一番好きな声だ。
「せん――――」
駆け寄ろうとして、
足が竦んだ。
『どちらにせよ、変化は覚悟することだ』
脳裏に浮かんだ同じ声。
血と泥に塗れた身体。中身は散々に肉杭を打ち付けられ精液を注がれた魂。霊基を修復したとしても事実はこの身に刻まれている。
ぞっとした。顔色を失くす。
自分の髪色は、いつもと同じか?
今まであの星を目指して、追いかけて、この足で駆けた。けれど先生が死んだ後で焦がれ続けた時間があまりにも長くて、いつしか返事のない時間が当たり前になってしまった。
だから自分の言葉に返事があることに未だ慣れない。自分の声に笑ってくれることが未だ夢のようで、考えたこともなかったのだ。
凌辱されたことを知って、穏やかで厳しくて暖かなあの瞳が、自分の姿を見て歪むかもしれないなんて。
自分は先生のことを何も知らない。何も分からない。
顔を合わせて、声をかけられたら、自分をどう思っているのかという事実を突き付けられてしまう。
空想でも虚像でもない、自分で思考して自分で言葉を選ぶ本物が目の前にいるのだから。
吐き続けた喉がひりつく。
無意識に晋作は半歩ほど後ずさった。顔も引き攣っていたかもしれない。恐怖に感情が剥がれる。
なのに。
「――――ッ!」
あっという間に駆け寄られて、あっと言う間に松陰に抱きしめられていた。全身が包まれる。
晋作は身体が後ろに引けていたので、まるで猪のように突進してきた松陰の身体を受け止めきれず、背中がひっくり返りそうになる。
仰け反った晋作の身体を支えるかのように松陰の腕が晋作の背中に回る。
松陰の指がかき抱くように晋作の背中を抱く。両腕の中に収まった晋作の顔が松陰の肩に否応なしに密着した。
押し包まれる力強さにぞっとするような冷たさが切り離され、発火が止まらない身体の熱に晋作は茫然とする。
「……マスターの簡易召喚は長くは持たない。あの雷撃は日ごとに威力を増している」
耳元をくすぐる松陰の戦況報告に晋作はむりやり思考回路を繋げた。背中にしがみつくような松陰の指の感触に頭がぐらぐらする。
「は、はい。長期戦は不利です。このまま押し切るしかありません」
上擦った己の声音に頬が赤みを帯びる。晋作は密着した部分から松陰の熱が自分に飛び火するのを実感し、思わず拳を作って耐えた。
「敵が姿を見せたのなら僕と君の火力で押し切ります。恐らく僕なら対抗できる。だが最後の一押しは君が頼りだ」
声が近い。息が迫る。受け止めた耳が火傷しそうだ。青みを帯びた黒髪が頬をくすぐる。
「やれます。戦い方は把握しました」
泥と血の匂いさえもあたたかい。全身に轟いているのは誰の鼓動か。
「よろしい。君の力で切り開いてください。それと」
ぎゅうと更に強く抱きしめられる。
紅梅の髪が松陰の指に絡みつき、後頭部がかすかに引っ張られ、晋作はひっと悲鳴を飲み込んだ。
「……今更ですが、僕にこうされて嫌ではありませんか?」
背中に回された腕の力強さはそのまま、弱々しい声音が耳元で響く。
拳を作っていた晋作の指が驚愕にぴんと伸ばされ、無意識に両腕をあげた。
「嫌、では、ありませんが」
頭が回らない。舌も回らない。
自分のものではない熱にくらくらと眩暈がする。
馬鹿正直に思ったことを口に出す。
「どうしたら、いいのか、分かりません」
晋作の上がった腕は松陰の外套を掠っただけで、どこにも触れなかった。触れていいのか、分からなかったからだ。
松陰がゆっくりと、晋作の両肩に手を置いて身体を離す。隙間ができて一つだった身体が二つになる。
真正面から晋作は松陰の眼を見た。
(――――あ)
凛々しい顔立ち、太い眉、眼鏡はしていなかったので、灼熱の星が惜しみなく露出している。
そこに怒りか哀れみか侮蔑か慈しみがあるかと思った。それなのに、何もなかった。
何故なら、太陽は燃えているだけであり、月は輝いているだけであり、星は瞬いているだけだ。
鮮烈な輝き。今も昔も変わらぬ一等星。
目指して、追いかけて、この星が辿り着けなかった明日の先まで駆けていこうとあの日誓った。
心のネジ式ゼンマイ、魂の呼び声、骨肉まで食い込む星の欠片。
自分を見る松陰の眼はどこまでも真摯で、誠実で、真っ直ぐだった。どう思われるかなんて杞憂だった。
この人は自分の魂だけを見ている。自分が何を成すのか、ただひたすらに見届けている。
その眼差しが、輝きが、あまりにも――――。
「先生の眼、きれいですね」
言葉が溢れる。
ひとりの楽園が崩壊する音が聞こえた。
「……?」
脈絡のない言葉に松陰が訝しげな顔をして、晋作はようやく我に返った。
「い――急いでマスター君たちと合流しましょう」
言い終わらないうちに晋作はその場から逃げ出すように駆け出した。
頬が尋常ではない熱を持って視界が滲む。骨を突き破りそうなほど鼓動が煩い。
どうか気付かれませんようにと自分の胸ぐらを掴みながら走った。
なぜなら今の言葉は、
紛れもなく愛の告白だったのだから。
星の光は鮮烈のまま、ただ綺麗だと思った。本物であるからこそ、こんなにも綺麗なのだ。正しさも間違いも置き去りにして、ただただ、綺麗だと思ったのだ。
忘れまいとした日々が癒えない生傷でも、塞がらない穴がありふれた醜悪でも、この人の眼を通してみればきっと、言葉にできないほど美しいものに違いない。
信じたかったものを信じ、忘れたくないものを忘れず、きれいなものをきれいだと愛す。
吉田松陰のその在り方が魂に食い込む。
目の奥が熱い。瞳が氷解して透明な液体が溢れ出しそうになり、晋作は慌てて頭を振った。こんな状況で、こんな場所で、こんな自覚をしなくてもいいだろう。
全てを否定する必要はなく、受け入れる寛容さもいらず、乗り越える勇気すらも無用なものだ。
なにかもがそこにあっていい。
愛することも愛されたいと願うことも。
駆けながらちらりと振り返れば、松陰がいつもの顔でついてきていた。晋作は小さく安堵のため息を漏らす。
その足元に、ぱりりと黒い稲光が走った。