星戴彼我

三章「罪不容誅(ざいふようちゅう)」

 

 足元でぱりりと黒い稲光が走る。目の前の地面が一瞬にして黒く輝いた。
 目視を超えた広範囲の雷撃。晋作の思考が止まりかける。ありえないはずだった。何故なら、目視ではない雷撃は無差別攻撃であり、陣営の兵も巻き込む。
 突然、頭の中で結びつく。晋作の背中に凍るような冷や汗が伝う。
 地中には魔力だけでなく、この地で死んだ者全ての怨嗟が溜まっている。血と肉と慟哭が浸っている。殺せば殺すほど雷撃は威力を増す。
 そして今は、殺害と蹂躙を行うための必要な戦力の大半を失っている。
 死体を吊るよりも大量虐殺が手っ取り早い。その段階にきてしまった。
 自分が仕留め損なったせいだと晋作は舌打ちをし、松陰の盾になるべく咄嗟に地面を蹴った。だが、それよりも先に松陰に突き飛ばされる。
「先生!」
 距離が空いたところで雷撃は収まらない。
 だが――――、地表が黒い雷で割れるよりも先に、松陰が振り上げた足を加減無しに地面に叩きつけた。
 大地を揺るがす強震。黒い雷撃は地中で音もなく爆発し、黒い裂け目が膨れ上がる。地面が波打つように揺れた。
 続いて、轟音。
 地面が崩れ、岩が砕け、木々が倒れる。大量の土埃が晋作の目の前を覆い、湿った土の臭いが鼻をついた。うねる地面に体勢を崩して倒れていない巨木にしがみつく。
 目も開けていられない土埃にせき込みながら薄目を開けると、松陰の姿が消えて地面もなくなっていた。
 巨大な怪物が地面を噛み砕いた後のような土砂崩れに、さっと血の気が引く。
 黒い雷撃が地中を走った瞬間、松陰が蹴りで相殺したのだ。無茶苦茶だ。けれど松陰の一撃が雷撃の威力をある程度削ぎ落としたため、晋作は傷一つ追ってない。
「せ、先生! 無事ですか⁉︎」
 松陰がいた場所に叫ぶ。
 晋作が立っている場所も足元から崩れそうで、その場から動けない。がらら、と岩が下へと転がり落ち、木の根元が崩れる。
 意を決して晋作が崩れた地面に足を踏み出そうとした瞬間、下から声が響いた。
「――――僕なら無事です! だが戻るまで時間がかかるッ、先にマスターと合流を!」
 いつもの明瞭な松陰の声。声音に苦悶が混じってないことに晋作は安堵したが、姿が見えない。躊躇う。躊躇う時間はあるか? 先生は本当に無事か?
 は、は、と晋作の呼吸と鼓動が忙しなく連動する。
 常ならば冷酷なまでに頭を切り替えて決断をするのに、焦燥だけが晋作の息を速めさせた。
 麓近くにいる藤丸とマシュは無事か? 足は、先生の足は無事だったか? 雷撃を踏みつけて相殺するなんて、身体が消し飛んでもおかしくはない。
 足が引っ張られる、後ろ髪を引かれる。見えない恐慌が背後で笑っている。
 マシュの宝具で雷撃をどこまで防げるか。令呪で修復したとはいえ、万全から程遠い自分がどこまで役に立つのか。先生は本当に無事なのか?
 思考と瞳が絶えず絡まり、神経がむき出しになったように落ち着かない。息を、息をしなければ。
 敵の姿は見えない。だが、無差別広範囲攻撃は決着の誘いだ。
 レイシフトした時から、皮膚が裏返るような悍ましさを常に足元から感じていた。これが恨みの声ならば、神霊には及ばずとも魂鎮めの神性を持つ吉田松陰は絶対不可欠。
 晋作は苦悶に満ちた表情で、ぐっと眉を寄せて決意する。
「……ッ分かりました! 信じてます、先生!」
 今はそう叫ぶしかない。時間稼ぎなら得意だ。
 晋作は立ち上がった。
 師を逃がすために命を捨てるのではなく、師を待つために命を賭けるのは最上級を超えた喜びだ。そうだ、本当はずっとそうしたかった。
 置いていくんじゃない、置いていかれるんじゃない。覚えてる、信じてる。
 血と砂の匂いがしたあのぬくもりを覚えてる。背中に回された腕の力強さを信じてる。
 胸の奥の痛みが全身を駆け巡る。それでも晋作は崩れ落ちそうな地面を蹴り、踵を返してその場から駆け出した。




 紅に金を混ぜた鮮烈な夕暮れを松陰は見上げる。赤い空は心が折れそうなほど遠かった。
「――――ッ」
 松陰は焼けつくような痛みに顔を顰めた。身体の半分以上が土砂と大木の下敷きになって埋まっていて、押し潰されている激痛が絶え間なく続く。呼吸するたびに胸が潰れ、骨がひび割れた。
 顔と腕が出ているのは幸いだった。窒息せずに済む。
 けれど雷撃を相殺した足の感覚がない。埋まっているせいか、それとも消し飛んだのか、重量のある土と大木に圧迫されているので確認もできない。
 焼(や)き鏝(ごて)で殴られているかのような痛みが全身の骨に響き、松陰は強く目を瞑って呻いた。けれど、額に玉のような汗を流しながらも、ようやく見つけた紅色の春を想い出す。
 そうだ。やっと見つけたのだ。
「……信じてます、か」
 短いながらもこれほど奮い立つ言葉は無いだろう。生前、誰の言葉も無視して愚直に突き進んだ自分にはことさら効く言葉だ。だから、今度こそ。
 もう二度と手に入らぬであろう『今』を手放したくない。
 人は間違いを犯す。何度でも間違える。ああすれば、こうすれば、と眠れぬ夜に頭を掻きむしるような後悔を抱く。
 だからこそ、今度こそ、と願うのだ。
 一度目は気づかなかった。この先に恐らく三度目はない。ならば二度目の『今』こそ死力を尽くすべきだ。
 英霊として教え子に出会えた奇跡の『今』こそ。
 松陰は上半身に力を込めると筋肉が張り詰め、汗が額から滴り落ちた。
 腕の力だけで大木をどかすために力を込める。
 嘔吐しそうなほど頭を支配する激痛の原因が身体のどこかも分からない。
 だが、そんなことは何の関係もなかった。
 晋作の信頼に応えなければならない。惜しんでいる暇はない。立ち止まっている余裕はない。
 今度こそ、此度の生こそ――。
「――――、おぉい、こっちだ! 手を貸せ!」
 聞こえた声にはっとする。晋作といた場所からかなり崩れ落ちてしまったため、麓近くにいた村人たちが様子を見に来たのだろう。
 そこには最初に会った家族を殺された男の顔もあった。慌てた様子で村人たちが松陰を押し潰している大木の周りに集まり、力を合わせて持ち上げようとしていた。
 当たり前のような救出に、ぞっとする恐怖と焦燥を覚えたのは松陰だった。もし雷撃がきたら、今の自分には彼らを守る手立てがない。
「ッ! 駄目だ、すぐに次の雷撃がくる! 早く安全な場所へ!」
「んなこと言ったって、先生お一人じゃどうしようもないでしょう!」
「僕は人の身ではない! いいから逃げろ!」
 松陰は力の限り叫んだ。激痛が全身を貫く。
 男たちは互いにきょとんと顔を見合わせて、ははっと晴れやかに笑った。
「人の身じゃねぇってんなら、神様に違いねえ」
「ああ、見捨てたら罰が当たらぁ。悪鬼よりも怖い神様だ」
 目尻の深い男がくしゃりと笑い、年嵩の男がおどけるように笑った。信じられないほど穏やかな犠牲の覚悟に、松陰は愕然とした。
 この特異点は修復されれば全ては無かったことになる。世界の修正。人理の砂消(すなけ)し。
 けれども、「死」は「死」だ。ここにいる人間は全て「魂」を持っている。唯一無二の命。代用品のない、後にも先にもどこにもない、ここにある命。だからこそ松陰は見捨てられなかった。
 それなのに。
「…………ッッッ‼」
 何を言っても彼らはここから逃げ出さないだろう。
 耐えることも塞ぐことも出来ない無力な痛みはもう十分だ。松陰は奥歯を噛み砕くほど腕に力を込めて、焦燥の淵で足掻いた。
 家族を守るために慣れぬ戦に身を投げることが出来る男たちは、人の身ではない恩人のために命を捨てることも惜しまない。
 全ては彼らが決めること。
 魂を持つ、唯一無二のひとりの人間の意志に、誰も敵うはずなどないのだから。
 ならば、一刻でも早く自身の身が自由になるしかない。下半身が千切れても構わない。首だけになっても構わない。彼らが一人でも生き延びることが出来るのならば。
 友の死も自身の死も知っている。けれど、目の前で自らの意志で神に捧げる贄のように、自分のために投げ捨てられる命を、知りたくはなかった。



 松陰の胸の内にある霊核に小さな焔が射す。一瞬、松陰の瞳に光の塊が煌めいた。
 それは松陰自身も気づかぬ内に、焔は光の蔦となってしゅるしゅると松陰の身体に這いながら、炭化した下半身を修復する。
 この土地は血と怨嗟で濡れていた。積み上げられた屍は生者への妬みで満ちていた。
 けれど、悲しみだけではないものを溜めた地面が厳かに謳う。
 古来より、人は神と共に生きてきた。あらゆる自然現象だけでなく、米粒一つにさえ神を見出した。
 超越的存在をただの愛すべき隣人と見なすために。
 松陰の霊核に射した焔が神格を宿す。
 この特異点で絆を結んだ人々の眼には、信仰と呼べるほどの厳粛さはない。けれど、確かに、悲しみという灰色の空の隙間から、火神のような十字星を見たのだ。
 元より吉田松陰は主神として奉られた人神。
 残り火の焔であれ、敬虔(けいけん)な祈りは松陰の霊核を一時的に上位存在へと昇華させた。
 山の斜面に蓄えられた堰堤(ダム)が決壊する。
 遠く、遠くから、ぱりりと黒い光が迫っていた。

 

 晋作は山の斜面の上から眼下に広がる焼け焦げた大地を見下ろす。煙った匂いがする風が吹き抜けると、焼けた地面から立ち上る熱気が晋作の頬を撫でた。
 晋作はマシュと藤丸の姿を見つけ、駆け寄る。
「高杉さん! 松陰先生は⁉︎」
「無事だが合流は遅れる。避難の指示は出したか?」
「はい。あの雷撃がどこまで届くかは分からないので、なるべく遠くへと……」
「それでいいさ。この狂った戦を終わらせれば問題ない」
 晋作は霊基を漆黒の姿へと変え、真紅の羽織と銀の装飾品が光を捉えて静かに揺れた。
 この霊基は最大限まで魔力放出できるが、消耗が激しい。だが、今しか決着をつけられない。あの黒い雷撃は威力を増し続ける。
 上から下へ流れ込んだ力は地中に溜め込まれる。時間をかけて地面に浸透したそれは全てを焼き尽くす天からの怒りと化した。いや、この地に染み込んだ怨嗟だった。
 丁寧に丁寧に磨り潰した骨と血と肉を焚べた悲痛。殺せば殺すほどあの雷撃は威力を増す。
 最初の戦闘の際、逃げていた人々を見殺しにしていたら、嘆きと恨みを更に飲み込んで黒い雷撃はこの特異点全てを灼け焦がしていたかもしれない。
 大地を揺るがす轟音。

 穴を掘る(ひとつ)。石を積む(ふたつ)。嗚咽を噛む(みっつ)。骸を探す(よっつ)。
 はらわたを戻す(いつつ)。花を焚べる(むっつ)。鴉が泣く(ななつ)。
 八つ裂き(やっつ)。虚ろの道(ここのつ)。十(みなごろし)。

 数えて十の黒い雷撃が地中から天に衝突する。炭化した木々は骨のように白くなり、黒い大地から灰が舞い上がった。ぱちぱちと迎え火のような火が所々で燃えている。
 敵兵の姿は見当たらず、更地にひとりの男が佇む。
 『吉田松陰』
 堕ちた太陽。群がる黒鴉。男はひび割れた眼鏡を外し、手のひらで握り潰す。その指先が不自然なほど何かで汚れているように黒かった。
 ちりりと頭に針のような痛みが刺し、晋作は顔を顰めた。見過ごしてはいけない光景にも思えたが、今はそれどころではない。
「……簡易召喚はできるか?」
 晋作の言葉に藤丸は無言で首を振った。晋作は舌打ちする。予想していたことだが、この地の霊脈は汚染されている。怨嗟はいつしか濁流となってこの特異点から溢れ、何もかもを飲み込むだろう。
 それに唯一対抗できるのは、吉田松陰だけだ。
「令呪はあと二画だな?」
「はい。令呪を使えば簡易召喚はできると思います」
「ここで出し惜しみする必要はない。なに、呉越同舟の奴らにも見せ場をくれてやろうじゃないか」
 晋作が肩を竦めて言えば、その言葉を理解した藤丸が頷いた。
 藤丸の手の甲の令呪が甲高い音を立てる。それは一時的ではあるが、膨大な魔力を使用した影の英霊召喚。
「令呪を持って命ずる――――お願いします!」

 山の斜面を狼のような影が滑るように這う。焼け焦げた大地よりも深い闇が、黒い雷撃に真っ向から挑む。
 『吉田松陰』が曲刀を構える。聖杯の知識か、相手が誰であるか感じ取ったのか、忌々しげに口が歪められた。
 ぬらりとぬばたまの闇から影が這い上がる。混沌と秩序と中立の善。五人の人影。誰もが剣――日本刀を持っている。
 人の形をした影。色は分からぬが羽織を袖に通している。血のような鮮紅の光が敵を見据えた。そう、敵、敵、敵! 倒すべき敵! 我らが士道を阻む邪魔者!

【長州征伐――――新選組!】

 口の端を吊り上げ、獣のように低く腰を落とした二番隊隊長の竜の顎の如き剛剣が全てを抉る。
 鍔が鳴った瞬間、不敵に笑う三番隊隊長の最短最速最強の剣が時間認識さえ狂わせて加速する。
 語ることなどないと、刀ではなく人として生まれてしまった少女が音も光も超えた悪夢のような超絶技巧を放つ。
 三つの刀が殺到する。『吉田松陰』はその全てを打ち払い、斬り捨て、貫き、穿つ。紙一重で刀を避け、殺意を込めて慣れた手つきで影の首を切断する。
 けれど影は首を落とされてもまだ動く。なお殺す。『松陰』が首なし影を見て舌打ちした。
 焼け焦げた山に勇ましき桜が、寂しげな花が、微塵の悔いもなく咲き誇る。戦場に相応しくない温和の笑みが、影の力と化す。
 首なし影の刀が『松陰』の太腿を貫き、血飛沫が飛び散った。泥に塗れたズボンが瞬く間に赤に染まり上がるも、『松陰』は痛みに顔を歪めることなどせず、冷淡に影を切り刻む。
 ばらばらになった影たちは消えながら笑った。
 まだだ、と。

【抜刀、突撃――不滅の誠(しんせんぐみ)――!】

 赤い稲妻が走る。足元から土埃が舞う。
 猛烈な雄叫びをあげるのは鬼の副長と呼ばれた男の影。短い外套を翻し、刀を振り上げて突貫する。
 『松陰』が眼光を細め、爆発したかのような速度の刀を避けるも、すかさず西洋銃の撃鉄が吼えて『松陰』の肩を撃ち抜く。死してなお戦い続ける鬼の副長の猛攻はやまない。
 未だ覚めぬ夢は泡沫、未だ終わらぬ命は仮初。
 すでに無く、とうに亡く。
 それでも誠の誓いは此処に。
 確かにあった。
 確かに存在した。
 ならば新選組・鬼の副長がいる限り、これは夢幻(ゆめまぼろし)などではない。斬る敵がいる限り、仲間の遺志がある限り、無念という言葉すら捻じ伏せる。
 副長の影の執念と生涯を乗せた一撃は追撃を加速させる。刀を振るう度に地鳴りがし、血風が巻き起こる。
 けれど、太陽が如き高温の黒い雷撃が轟音と共に地中から天まで届く。全てを燃やし、全てを貫き、影は無残にも四散する。
 本来の霊基ならば届いたであろう刀は『松陰』の首元で止まる。影の鬼の姿が、夢幻(ゆめまぼろし)が、消える、消える、否、否、否! 未だ終わらぬ!
「――ッ!」
 身体が全て消えようとも、血のような赤い眼と刀の切っ先が『松陰』の身体に食らいついた。
 首の根元から血飛沫をあげる『松陰』の頭上に、瞬間、煌めくものがあった。

 

「雷(かみなり)ッ!」
 飛び上がった晋作が空から銃剣を叩きつける。重力の加速をつけた弾道弾(ミサイル)のような一撃。雷撃を避けるためには空からの攻撃しかない。
 『松陰』は落ちてくる紅梅色の隕石を真正面から曲刀で受け止め、笑った。刀が拮抗し合い、足裏が地面に沈む。舞い散った火の粉と灰が雪のように降っていた。
 刀の刃がせめぎ合い、男が口の端を歪める。
「手品はネタ切れですか」
「お互い様でしょう。ばりばりばりばり、雷神様気取りですか」
「この地の怨嗟の声だ。蛆が集(たか)って腐った嘆きだ」
「アンタが積み上げた恨みだ!」
 ぱりりと黒い雷撃が『松陰』を取り囲む。雷撃の元が怨嗟の声ならば、どれほどの屍を積み上げたのか。
 晋作は咄嗟に後方へと飛び退いた。
「証明せよ、『いまに在りし夢想の城(ロード・キャメロット)』!」
 マシュの宝具が展開される。完全ではないにしろ、全ての魔を跳ね除ける城塞。ありとあらゆる攻撃は盾の少女の勇姿によって霧散する。
 轟く雷鳴。黒い放電は大気さえ焦がすも、歪な城壁には届かない。
 雷撃はマシュの宝具で防御出来るが、展開されている範囲から一歩でも出れば骨まで灼かれる。藤丸を守ることはできても、打って出ることはできない。
 だが、雷撃の持続は永久的ではない。息継ぎが必要だ。そこを狙うしかない。
 雷撃の音と光が途絶えた瞬間、晋作はマシュの盾の後ろから飛び出して銃剣を突き出した。
「そろそろご退場願おうか!」
 晋作が咆哮する。――――瞬間、『松陰』の袖の裾から飛び出した影があった。暗器の短刀。日本刀の切っ先。
 それは呆気に取られた晋作に掠りもせず、宝具展開を終えたばかりのマシュの眼前に迫っていた。
「え」
 完全な死角からの攻撃。意志がある限り、マシュの盾は全てを弾く。けれどもマシュ自身には効果が薄い。自分よりも他人を優先する善性こそが彼女を彼女足らしめている。
 彼女は守りたいものを守る。けれども自分を守ることを未だ不得手としていた。
 マシュのこめかみに短刀の影が過ったその瞬間、血が飛び散った。
「ッッ!」
「先輩っ!」
 マシュの頭に短刀が届く寸前、藤丸の手のひらが短刀を受け止めた。それは手の甲の骨を容易く貫通し、肉に食い込む。
 あまりにも咄嗟のことだったのか、藤丸は右手でマシュをかばった。その右手には令呪が刻まれており、短刀が突き刺さったまま血がぶわりと溢れ出した。藤丸は額に冷や汗を浮かべ、絶叫を堪えるように歯を食いしばっている。
 晋作はその光景を見て、閃光のような怒りが破裂した。
「貴様ぁ! 女子供を狙ったな!」
「動くな!」
 轟音の如き男の怒声に全員が動きを止める。マシュは藤丸に駆け寄ろうとして足を止め、晋作はいつでも飛び出せるように爪先に力を込めた。
 『松陰』が手の甲に短刀が刺さったままの藤丸を睨む。
「……魔術師と言えど、今の一撃をただの人間が防ぐなどあり得ない」
 びりびりと大地が震える。『松陰』が不快げに眉を顰めた。
「……松陰先生に術式を施してもらいました。手だけですけどね」
 藤丸が呻くように答える。
 だが、そうではない。ただの人間が英霊の速度に反応できること自体があり得ないのだ。あらかじめ『攻撃が来る』という予知視ができるわけはない。
 晋作もそれは不思議に思っていた。何故、藤丸はあの時に『松陰』がマシュを狙うと分かったのか。
 『松陰』は口を閉ざし、藤丸の言葉の続きを待っている。それは敵としてはらしくない姿だったが、引っ掛かりを覚えたのならば突き止めねば気が済まない生前の師のような姿な気もした。
 藤丸が右手首を左手で押さえながら口を開いた。
「戦略的に考えれば狙うならオレ(マスター)でしょう。でも、あなたは悪い行いをする悪人だ。だから必ずマシュ(女の子)を狙う」
 やばい、と晋作は感じた。七つの大規模特異点を修復し、七つの異聞帯を破壊し、地獄の頂点を目指す人類最後のマスター。この場の誰よりも死地を潜り抜けた強者(つわもの)。
 藤丸は痛みに目尻と口端を歪めながら、感心するように言った。

「あなたは――――とても真面目だから」

 絶句する。
 静かに、静かに、大気が放電する。
 黒い稲光が『松陰』を取り巻く。業火の星の眼に宿るのは、表情をなくした顔に浮かぶのは、憎悪ではなかった。醜悪なものではなかった。
 『松陰』は瞬きさえせず、口元を一文字に結び、傷口を抉られたかのように耐えている。
 ただただ、純粋に腹を立てた顔をしていた。
 塾生時代と同様の師のキレ顔に、晋作はひくりと頬を引き攣らせた。
「おい、君。ここまでラスボスを煽ったんだ。もちろん策はあるんだろうな」
「高杉さんといるとき、オレに策があったことあります?」
「丸投げか! マシュ君はマスター君(そのバカ)を守れ!」
「はいっ!」
 暗雲が茜空を覆う。火の粉と灰が上昇気流に巻き込まれて渦を巻く。地面が怨嗟と手に負えない悲痛で膨れて生き物のように蠢いた。
 まだだ。まだ死ねない。
 晋作は銃剣を握りしめる手に力を込めた。
 玉砕覚悟の特攻はただの責任の放棄だ。自分が、先生が見たかった世界をここで途絶えさせるわけにはいかない。
 晋作は歯を食い縛った。
 黒い雷撃が牙を剥く獣のように地表を走り、晋作は息を吸い込んで銃剣を構える。
 すると――――ぱりりと黒い雷撃があらぬ方向に首をもたげ、晋作には直撃せずに真横の地面を鋭く抉った。
 『松陰』が晋作の背後に視線を向けて、舌打ちする。晋作は銃剣を構えたまま、僅かに目線を後方に向けて目を輝かせた。
「松陰先生!」
 土煙の中から、泥まみれの吉田松陰がゆっくりと歩きながら現れた。
 晋作は師の五体満足の姿に胸を撫で下ろしたのもつかの間、松陰のきつく引き締められた口許を見て息を呑む。蒼白な顔に怒りとも哀しみとも言えない憤りの色が浮かんでいる。
 なんで、そんな、泣きそうな顔を。
 松陰は手に短刀が突き刺さったままの藤丸を見て、力強く頷く。そうして、灼熱の十字星に強さと輝きが戻った。
「…………ずっと違和感がありました」
 松陰がぽつりと呟く。
 二人の吉田松陰が鏡合わせのように向かい合った。そこには何の感情もない。あるのは嫌悪だ。鏡に映った自分を忌々しく叩き割るような、見ていられない嫌悪があった。
「なるほど、『吉田松陰』は悪逆非道です。この地に生きる人々を焼き殺し、死体を吊って晒し、教え子を陵辱し、女子供の頭も撃ち抜く。その行いは非の打ちどころのない、稀代の悪だ」
 そうだ、その通りだ。晋作は訝しげに二人の吉田松陰を見る。
 足元から雷鳴が轟く。
「けれど、そこに愉悦も合理性もなく、無益な非道を貫く意志に信念さえ感じていました。『吉田松陰』は何よりも悪であることを、律儀に優先している。――正義の味方に打ち滅ぼされるべき悪役を」
 雷鳴のように響いた言葉に晋作は言葉をなくす。先ほどの藤丸の言葉が蘇る。彼は、あなたは悪であることに真面目だからと煽ったのだ。
 悪であることは明白だ。だが、それを演じていると松陰は口にしている。
「この僕にはない憎悪を宿した瞳。だが、クラスは復讐者(アヴェンジャー)ではない。考えられるのは憎悪を宿したまま復讐を完遂し、誰にも討伐されずに朽ちた狂戦士(バーサーカー)」
 『松陰』が血唾を吐き、問答は無用だとばかりの言葉が棘を含む。
「……それがどうした。死後に主神として奉られた吉田松陰と僕は違う」
「奉られる痛みをお前は知らないだろう。だが、運命は違えど魂は同じだ。だからこそ、分かる」

 それは汎人類史ではない世界。剪定される異聞帯ではなく、平行世界という隣の世界。
 ばつん。ばつん。朽ちかけた縄が千切れる。どすん。ぐちゃ。誰かが見た光景。
 これまで男と刀を交えるたび、松陰の脳裏には目の覚めるような地獄が焼き付けられた。
 『吉田松陰』が見た光景。
 どれほど残酷な物語であろうとも所詮は他人事。消費するだけのお話にもならない袋小路。
 松陰が口を開く。本を朗読するかのように淡々と。

 

「一人も残らなかった」
 雷撃は天の怒号か。或いは誰かの慟哭か。
 教え子がいた。同志がいた。そして家族がいた。潮の匂いが届く、美しい故郷(ふるさと)。
 ――だったはずなのに。
 『吉田松陰』は斬首されず、放免された。故郷に戻ったら、心配をかけた皆に謝らなければ。
 けれど、そこで見たのは焦土と化した故郷だった。
「墓穴を掘ることも出来ず、はらわたを晒した遺体が海に浮かんでいる」
 干からびた作物、焦げた瓦礫。陽が落ちても暗闇の中で炎に包まれた人が踊っている。柘榴のように開いた肉が道端でもう殺してくれと泣いている。
 執拗な残虐性は果たして誰が持ち得たのか。
「家族の骸は吊るされて鴉の餌、残ったのは焼き尽くされた帰る場所」
 憎しみは黒煙となり、鴉はお祭り騒ぎ。見開いた目が呪いを吐く。
 終わるだけの人生ならばまだ美しかった。首を落とされるだけならばまだ救いがあった。
 眼前に広がるのは血の匂いがする、冷たい死骸(ふるさと)。
「皆殺しにされた」
 斬首されなかった『吉田松陰』に待っていたのは、関わった者全てが惨殺された運命だった。

 

 黒い雷撃を身に纏った男の十字星が、怒りも憎しみも超えて、星が砕け散るように滲む。
 『松陰』の貌が異様なほどに崩れた。
「放免され伝馬町獄から萩に帰れば、佐幕派の藩士に塾生はみな粛正という名の下に殺されていた。藩は内乱となり殿は責任を取って自害した。残ったのは暴徒に吊るされた家族の死体だ!」
 業火のような声だった。煮詰まった憎悪を地面にぶちまける、どうしようもない絶叫だった。
「全てだ――――全てだ!」
 叫び続けて嗄(しゃが)れた声音。慟哭は太陽さえも溶かした。骨まで黒く染まった黒鴉は目に映る全てを焼き焦がす。
 灰と火の粉が『松陰』に降り注ぐ。けれど、外套に触れた瞬間、黒い雷によって蒸発する。
 『吉田松陰』の瞳はもう干上がっていた。
「僕は討幕を謳いながら隊を引き連れて江戸に向かった。立ちはだかる全てを迎え討ち、誰が死んでも足を止めず、江戸を血の海に変えて城奥まで辿り着くのに五年かかった」
 『松陰』は虚空の瞳で、生気に欠けた顔で笑った。
「首を落とした」
 誰の、とは言わなかった。
「見渡せば、まわりには何も無かった」
 それはどんな光景だったのか。
「……聖杯に願ったのは、善の証明か」
「そうだ」
 松陰の言葉に、『松陰』が断言する。
「僕の行いが悪であるならば天が罰を与えるべきだ。罪もない人々の命を奪い続け、挙げ句の果てに日の本を滅ぼした稀代の悪が討ち果たされることで、やっと新たな時代の幕開けとなる」
 何を成しても上がすり替わるだけ。倒される悪が変わるだけ。
「僕という悪は善によって殺されるべきだ」
 瞬間、地響きの音と共に鮮やかな紅色の花が戦場に舞う。
 爆発した激情に顔を歪めた晋作が『松陰』に向かって身体を捩じり、銃剣を振り上げ、叫んだ。
「そのために、そんなもののために! 吉田松陰の名を踏みにじったのか!」
「殺す! 殺し続ける! 無意味な死を時代の幕開けの礎(いしずえ)とするために!」
「アンタの時代はもう幕切れだ!」
「なれど僕は悪の勝者として君臨し続ける! 逆賊として誅してみせろッ、晋作!」
 ひしゃげた怒声で『松陰』が応酬し、曲刀で迎え撃つ。刃の衝撃音で空気が爆ぜ、火花が飛び散った。
 晋作の噛み締めた唇から血が滴り落ちる。悔しさが滲む。この男の言う通りに死をくれてやることが癪に障る。
 この男にとって、悪とは義務だ。正しさの前にこうべを垂れる間違いそのものだ。
 自分という間違いを正されなかったために狂ってしまった男。
 男を止める者はすでに殺された。教え子も同志も家族も故郷も何も残らなかった男には、復讐しかなかった。
 他にすべきことがなかったのだ。
 だが、それはあまりにも身勝手だ。そのために流れた血で海ができる。
 夢も志もない、ただの酷(むご)い悪だ。
 晋作は雄叫びをあげて力任せに銃剣を振るう。その足元からぱりりと黒い雷撃が走った。
(知ったことか!)
 欠片も怯まぬ晋作に雷撃が直撃する寸前、松陰が晋作の首根っこを掴んで急停止させ、代わりに雷撃の前に身を晒す。
 炸裂するはずの雷は断末魔のような音を立てて霧散し、残り火が大気を焦がす。後方に飛び去ったのは『松陰』の方だった。
 やはり、先生なら相殺できる――と、晋作が光明を見出した瞬間、ぎょっとした。
 松陰が見たことも無いほどの険しい顔で吐血している。口から漏れた血がしゅうしゅうと蒸発していた。そばにいるだけで火傷しそうな熱が松陰の身体から発せられていた。晋作は自身の勘違いを思い知る。
 ――――相殺ではない。避雷針だ。
 松陰の身体の内部が焼け焦げている。摩擦帯電で内部は太陽と同じ高温により融解と蒸発を繰り返し、それを瞬時に修復している。
 身体の中で積乱雲を飼っているようなものだ。
 ぞわりと血の気が引き、晋作は咄嗟に雷撃を一身に引き受ける松陰を制止しようとした。
「先生ッ!」
 けれど、松陰はすでに鞘を投げ捨て『松陰』に斬りかかっていた。二人の男の刃が交わると、耳障りな金属音が火雷と共に響いた。
 松陰は刀を握り、構え、雷撃よりも激しい怒気を纏ってもう一人の自分を威圧する。
「望み通りこの場で縊り殺してやる。だが、間違ってもお前のためではない」
 松陰の顔が憤怒に歪む。火の中にいるような業苦だろうに、それを超える殺意が灼熱の瞳に宿る。
「私情だ。私怨だ。晋作に触れた手を斬り落とす」
 その声音は、松陰に抱きしめられた時と同じ熱さを持っていた。晋作は場違いにも呆気に取られる。
 あの凌辱は、『松陰』が悪であることを示すための意味のない行為だった。
 けれど、松陰は死に至るほどの激痛が訪れている中、世界の命運よりも自身の怒りを優先している。
 それは紛れもなく、晋作が悪のはけ口とされたことへの怒りだった。
 松陰が地面を蹴り、男と剣戟を繰り広げる。
 無数の刃が容赦なく首と心臓を狙う。まるで荒ぶる神の災害。壊れ千切れ、砕け崩れ、狂気をはらんだ刃がぶつかり、天雷が鳴り響く。
 松陰は血さえ蒸発する身体で吼えた。
「地獄すら不要! 罪を許すために罰があると言うのなら、罰を与えることすら許しはしない!」
 『松陰』が侮蔑を込めてせせら笑う。
「恋慕にでも狂ったか! 哀れな末路はどの時代でも同じらしい!」
「末路が同じであったとしても、僕の明日には晋作がいた!」
 それこそが吉田松陰の分岐点だと。
 目を見開いたのは晋作だった。銃剣を握り締める指が解けそうになる。泡沫のような熱が仄かに視界を滲ませた。
 なんで。先生。
 なんで、そこまで想ってくれるんですか。
 残響さえ打ち消す斬撃の合間に、松陰がぎりっと歯を食い縛る音がした。
 日が暮れる。太陽が沈む。けれど焦土と化した地面には、炎がちらちらと辺りを照らし続けた。
 瞳に宿るは火神のごとき十字星。全てを焼き尽くして骨になろうとも前に進むだけの怪物。血を吐きながら吼えたのは、カルデアの吉田松陰だ。
「高杉晋作が切り開いた道を開けろ! 邪魔だぁ!」
「人理の飼い犬が吠えるな! 吉田松陰ッ‼」
 二人の吉田松陰が同時に叫ぶ。

「「この身は地獄に到る道標(みちしるべ)! 死してなお屍を積み上げる!」」

 魂を乗せた力が拮抗する。
 死者の慟哭が黒い雷撃となって辺りを覆う。屍と鬼哭啾啾(きこくしゅうしゅう)の泥が聖杯を汚し、血と骨で造り上げた修羅の道を後押しする。全てを殺され全てを殺しても止まらなかった虐殺者。
 その威力に全員が後方へと飛ばされる。
 けれど、最前線で歯を食い縛るのはノウム・カルデアに召喚された吉田松陰。何も成さずに斬首された挫折者。されど、人神として奉られ、僅かな神性をその身に宿す者。
 松陰が積み上げたのは屍だけではない。悲しみだけではない。生者の鎮魂が、死者の意志が、神鳴(かみな)りとなって道を切り開く。
 世界を押し潰す激しい雷撃の雪崩、黒と白の津波、この世の果てのような光景の中、藤丸の最後の令呪が赤く輝いた。
「令呪を持って命ずる!」
 膨大な魔力が松陰の神性を後押しする。雷撃が交錯する中、力強い輝きを纏った天雷(てんらい)が黒い雷撃を押し返す。
 晋作もまた、銃剣を握り締める手に力を込めた。
 黒い雷撃は松陰がその身を犠牲にしてまでも押し留めてくれている。だが、霊基の修復が追い付かなければいずれ霊核すらも灰になる。
 黒い雷撃のカーテンの合間を盾を振り上げたマシュが走り抜ける。軽やかに、けれど円卓の大盾は何よりも重い。
 マシュが大盾を横に薙ぎ払う。遠心力と速度を乗せた大盾は疾走する城壁そのものだ。
「貴方がどれほど辛い目に遭ったとしても、正しさを示すために罪を重ねるなんて間違っています!」
「国家転覆を目論んだテロリストが、国を憂う愛国者として祀り上げられた汎人類史こそが間違いの証明だ!」
 けれど『松陰』の曲刀は城壁そのものを押し返す。大盾が跳ね上がるも、マシュは重力に従って『松陰』の身体を目がけ、断頭台のギロチンのように突き下ろした。
「私達は間違いを正すためだけには生きられない!」
 加速した大盾を曲刀で受け止めるも、地面をへこませるほどの衝撃に耐えきれずに『松陰』が腰を落とし――、豪脚で大盾を蹴り飛ばす。
 ぐわんっという大鐘が揺れる音が響き、マシュが後方に弾き飛ばされる。
「その通りだ!」
 弾き飛ばされたマシュと入れ替わるように晋作が躍り出た。銃剣と曲刀が不協和音を奏でながら激しく打ち合う。
「善も悪も、正しさも間違いも、ただ重いだけの捨てられない荷物だ! 僕が――俺が戦う理由は夢見た明日にこの足を踏み出すため! 影法師であろうとも、この身は不滅の星を戴く!」
「何も成さなかった屑星の下でお前達の維新とやらはどれほど無駄な血を流した!」
「そこまで責任持てるかぁ!」
 叫ぶ。血走った瞳に血潮が飛ぶ。肉が爆ぜる。
 一撃一撃に意識が飛ぶほどの衝撃が骨の髄まで響く。刀が弾け飛んでは全身のバネを使って再び振り下ろす。火花が炸裂する。金属音はもはや岩を砕くような音に変わる。
 だけど、けれど。
 晋作は誰に恥じることもないと胸を張って叫ぶ。
「俺は! 今日を生きて明日を繋いだだけだ!」
 紅玉の宝石のような瞳は決して濁らず。
 ただひたすらに信じたいものを信じた。継ぎたいものを継いだ。
 銃剣を握る指はすでに血塗れだ。あと一撃でもまともに食らえば足が止まる。けれど――、
 足跡を繋ぎ、果てしない道を踏みしめた。
 誇り高く、師の志を胸に。
「肺が潰れようが血を吐こうが、何処までもこの足を動かしたのは先生達と語り合った日々だ!」
「ッ! 誰も彼もが殺された! 何の意味も成さない日々だった!」
 刀を振るって叫びながらも『松陰』の瞳の星に小さな空隙が生まれる。無意味で無価値で無駄だった日々。
 だが、晋作はそれに正面から否と唱える。
「あの日々が楽しかった!」
「――――」
 あの日々が、狂おしいほどに。
 瞬間、『松陰』の顔から感情が抜け落ちる。そこにあったのはただの抜け殻だった。
 晋作は歯を食い縛って銃剣を振り上げた。そうでもしなければ視界が滲んでしまう。
「カルデアの道はあの日々の続きだ! 命に代えても途絶えさせたりはしない!」
 どこまでいっても自分という人間の根っこにあるのは、短命だったあの日々だ。春のような暖かな日々、面白おかしく仲間と語り合った日々、愛しげに目を細める師が笑っていた日々。
 あの日々に帰りたかった。
 取り戻したかった。
 返してくれないのなら、せめて汚さないでくれ。
「どけぇぇええッ‼」
 晋作は身を捩じって銃剣を持った腕を後ろに引く。得意の突きの姿勢だ。威力は絶大だが予備動作が大きい。
 その隙を『松陰』が見逃すもなく、顔を大きく歪めて曲刀を横薙ぎに振り払う。
 地響きがして、前に出た松陰が晋作を庇うべく鈍く重い一撃を刀で受け止める。
 だが、雷撃を受け止め続けた刀はその威力に耐えきれず、ぱきんと折れた。
 男の曲刀が松陰の腹に食い込む。薄氷の如く腹が裂かれ――、松陰は曲刀を両手で掴み、更に自身の腹に押し込む。
 『松陰』が目を見開く。曲刀は松陰の身体に挟まれ、びくりとも動かない。
 松陰が吐血する。腹からも血が零れる。それでも松陰はにたりと笑って、男の曲刀と共に崩れ落ちた。
 晋作は血飛沫をあげて倒れる松陰を絶大な安心感で見送る。信じているからこそ、信じられているからこそ、足は止まらない。
 渾身の力で踏み込んだ晋作の足が地面に沈む。怨嗟と嘆きが染み込んだ地面は腸を踏み潰したような感触だった。大地を埋め尽くすのは静かな恨み。
 晋作の目尻が歪む。
 ――――今は、僕を恨め。
 自分も地獄に落ちるに相応しい犠牲を積み上げた。英霊としての意義がなくなれば、全ての代償は必ず払う。だから、
(この一撃だけは、届かせろ――!)
 引いた腕は矢のように引き絞られ、銃剣の先は真っすぐ『松陰』の胸を目指す。
 けれど、まだ遅い。曲刀から手を離した『松陰』が袖から短刀を引き出し、晋作の無防備な額を狙う。
 確実に『松陰』が短刀を投げる方が早い。晋作もそれを理解している。けれど、踏み込む足にも、突き出す腕にも迷いはない。
 やるべきことをやる。
 それをやり続け、世界を救い続けた最後の人類が背中を守っている。
「――――ッ!」
 突如、息を呑んだ『松陰』の動きがぴたりと止まる。それは僅かコンマの世界。けれど奇跡の刹那。
 藤丸が短刀が突き刺さった右手を無理やりに握り込み、人差し指を『松陰』に向けていた。原初の母さえ止めた人類の叡智(ガンド)。
 瞬きをする間もなく、時が戻って『松陰』の手が再び動き出す。だが、晋作の銃剣が勝(まさ)った。
「オオォォオオッッ‼」
 晋作は雄叫びをあげる。迷いはない。憐れみもない。この一撃は決して正義ではなく、慈悲でもなく、譲れないものを譲らないだけの原動力。
 銃剣が『松陰』の胸を貫いた。





 

 

 青みを帯びた夜が始まる。
 星をかずく。星を戴く。
 だれにもなれなかった星が、消える。







 

 血の匂う風が吹いて過ぎる。
 胸に穴が空いた『松陰』は口からごぷりと大量の血を吐き出し、地面に膝をつく。瞬く間に血だまりが広がった。
 晋作はぜぇぜぇと必死に肩で息をした。頬を濡らすのは汗だ。汗でなくてはいけない。
 銃剣を握った指が硬直している。息をするのにも命懸けだ。油断はできない。確かに霊核を貫いた感触がこの手にあったが、相手は狂気の怪物なのだ。
 冷気が頬を刺す。太陽は傾いて、長い長い影が焼け焦げて血に塗れた大地に揺れる。
 だが、それは杞憂だった。ひゅーひゅーと穴から息が漏れる。『松陰』は穴を塞ぐこともせず、ただ吐血を受け入れていた。ごぷ、ごぷりと口から溢れる致死量の血が顎から首に伝い、青いシャツを黒色に染める。ネクタイの切れ端が地面に落ちた。
「………………」
 晋作はかける言葉などあるはずもないのに、言葉を探してしまう。自分が目指す道の障害を排除した。これは、ただそれだけの話だ。胸が痛くなるような話ではないのだ。
 腹部の傷を手で抑えた松陰が前に出ると、焦点の合わない男の瞳に僅かに光が戻った。松陰は死に体の男を見下ろす。
「何度殺されても償えると思うな。誰かに許されると思うな。英雄はお前に付き合うほど暇ではない」
 松陰の言葉に晋作が目を見開く。松陰がちらりと晋作を見て、男に向き直った。
「高杉晋作こそが僕の英雄だ」
 それは誰に向けた言葉だったのか。
 『松陰』が水死体のような顔を上げ、口から血泡を吐く。それでも業火の星は色彩を失わない。
「駆けて駆けて駆け抜いて、僕の背中を追い越して時代を切り開いた、僕の憧れ」
 松陰の言葉に晋作は弾かれたように顔を上げた。込み上げる衝動を止められず、晋作の血と泥で塗れた頬に一筋の光が伝う。
 違う、違う、違う。自分は英雄なんかじゃない。ただ、あなたを追いかけただけだ。
 足を止めるのが怖かった。走れば走るほどあなたとの想い出が遠ざかっていった。
 それでも、あの日々を未来に遺したかった。
 忘れたくなかった。
 誰にも、忘れてほしくなかった。
 自分が死んでも、せめてあなたの志だけは。

 信じたかったものを信じ、忘れたくないものを忘れず、きれいなものをきれいだと愛す。
 吉田松陰のその在り方を心から愛してる。

 晋作の硬直していた指が緩み、銃剣が地面に重い音を立てて落ちた。
 松陰は誇らしげに語る。
 空高くはためく旗のように。
「晋作は託されたものを投げ捨てず、明日に繋いでくれた。ただ志に殉じた凡庸な僕達とは違う」
 その言葉に『吉田松陰』は僅かに口元を緩ませ、燐光と共に消えた。

 

『吉田松陰』は死んだ。
 だが、聖杯の回収は出来なかった。聖杯保持者には違いなかったが、恐らくは聖杯は違う場所にあるのだろうと松陰が口にする。
 藤丸に簡単な応急手当をした後、晋作が捕らわれていた天幕まで一行は無言のまま足を進めた。そうして、周囲を見回した松陰は、さらに斜面の上へと迷わず足を進めた
 天幕で見つけたランタンを手にして辺りを照らす。木々に囲まれたひっそりとした場所に、それはあった。
「……恐らく、誰にも知られないように偽装していたのでしょう」
 晋作たちは息を呑んだ。
 木々の隙間に広がる地面には、掘り返された黒い土が無造作に盛り上がり、その上にはごつごつとした石が無秩序に積み上げられていた。
 自然にそうなったわけではなく、明らかに人の手によるものだった。幾つも、幾つも、不揃いに並んでいた。
 それは墓だった。
 土の下に死体が埋まっているわけではないだろう。何が埋まっているのかは分からない。
 しかし、それでも、それは墓だった。全てを殺された男にただ一つ許された贖罪。

 見渡す限りの慟哭だった。

 数えきれないほどの墓は粗雑で粗末だった。
 無音。無言。無残な空気がひやりと首を撫で、やり場のない無力感が雪のように積もる。一行は墓を直視できないまま、足を進めた。
 夜明けを迎えれば太陽が一番に見えるであろう見晴らしの良い場所に、他の墓とは異なる墓があった。
 供えられているものがあったのだ。
 丸い木の実。まだ小さな蕾の花。すべすべの小石。
 それは、小さな命が好む、愛らしさが凝縮した世界の一部。そして、この世全ての者が目を背けたくなる墓。
 晋作はその墓を見た瞬間、崩れ落ちるように膝をついた。手のひらが地面につく。血さえ凍りつく冷気が全身に回る。
 疑念はあった。幾ら教え子も同志も家族も殺されたとはいえ、志もない鬼畜の道を歩むことが出来るのだろうかと。この世全てを憎むことが出来るのだろうかと。

『全てだ――――全てだ!』

 嗄(しゃが)れた慟哭が木霊する。
 生活は豊かではなくともどちらの吉田松陰も家族に恵まれていたはずだ。末の家族とは大分年が離れていた。兄や妹はすでに婚姻し、子供がいた。
 小さな、小さな、まだ十にも満たない、小さな命たちが。
 全てを奪われたから復讐の道を歩んだのではなく、未来を刈り取った蛮行を許せなかったのだとしたら。
 それは確かに復讐だった。罰も罪も知らぬ小さな命に手をかけたのだから、報いはしかるべきだ。
 それは確かに憎悪だった。奪われるべきではない命が自身のせいで奪われたのだから、安寧の死など許されない。
 突き進むしかなかった。
 血と骨で造り上げた修羅の道を。
 無慈悲な悪鬼の面を被って。
「くろ、くて。ゆび、が」
 晋作は地面についた手に力を込める。爪に土が食い込む。息が、息が出来ない。
 あの時、何を見た?

『全く、好ましい』

 十字の星は、自分に郷愁(きょうしゅう)を見たのではないのか。
 身体が鉛のように重い。張り詰めていた神経の蝶番が外れる。指が震え、声が震え、瞳が震える。晋作は臓腑が裏返る感覚に襲われた。
 『松陰』の指先がいつも黒く汚れていたのを覚えてる。
「す、煤(すす)じゃなくて、ここで、」
 骨がへしゃげるような痛み。どれほど背後から犯されようとも傷つかなかった胸の奥が切り裂かれるようだ。
 晋作が天幕から脱出した後、あの場所で雷撃を打たなかったのは発動条件が地形だったのではなく、何も埋まっていない墓を荒らしたくなかったからではないのか。
「何も……、何も、僕は、俺は、先生に何も――」
 『吉田松陰』が生きた世界で行われた理不尽な粛清には自分も含まれていただろう。何も出来ずに自分は殺されたに違いない。溝(どぶ)に捨てられた命。
 男が作った無数にある墓の一つは、何も成せずただ師を慕っていた『高杉晋作』の墓。
 どの運命でもこの身は何も成せなかった。何も、何も、本当に救いたかったことも、何一つ――。
「やめなさい」
 驚くほど強い口調に晋作がびくりと震える。見上げれば、痛ましい顔をした松陰が晋作のそばにしゃがみこみ、晋作の肩に手を置いていた。
「それは君の道を君自身が穢す言葉だ」
「……ッ!」
 言葉を失くす。感覚がなくなるほど土を握りしめた指先はまだ氷のように冷たい。悲しいぐらい澄み渡る夜空の下、晋作は嗚咽を嚙み殺した。
 しばらくの沈黙のあと、松陰が手をかざすと土の中から眩い光と共に純粋な魔力の塊――聖杯が現れた。
 その刹那、
『――……ッ、……ぁ、――』
 ノイズが走る。通信不能だったカルデアとの音声通信だった。安堵の表情を浮かべたマシュが藤丸の方に顔を向けた。
「先輩。カルデアと通信が繋がりそうです」
「聖杯を回収出来たからだね。良かっ――」
 言いかけて、止まる。画面は相変わらずノイズが走っている。けれど、レオナルド・ダ・ヴィンチの焦燥を含んだ声音だけがつんざいた。
『――――今すぐその場から逃げるんだ!』
 同時に、無名の墓地に暴風のような魔力の奔流が吹き荒れた。雷の如き音と光が渦を巻いて夜空を照らす。
 マシュは咄嗟に大盾を構え、晋作は瞬時に切り替えて警戒する。響くのは無常なまでの管制室からの声だ。
『観測では聖杯の回収は確認出来た! なのに聖杯が再起動している!』
「――――ッッ! 高杉さん! 松陰先生! ……せん、せい?」
 最初に気づいたのは藤丸だった。次に目を疑ったのは晋作だった。
 目も開けていられないほどの光の嵐の中、松陰だけが静かに佇んでいた。魔力の渦の影響を受けていない。なぜならば――、
 松陰が聖杯を再起動している。
「――ッ! マスター君、令呪を切れ! 先生を止めるんだ!」
「ぜ――全部使い切ってます!」
 叫んだところで光のしるべは輝きを増し続ける。熱を持たない純粋な魔力は善悪も正否もなく、誰かの願いを叶える。
 動揺と驚愕に晋作の切り替える思考が追い付かない。止めなければと焦るのに疲弊した足は動かず、土で汚れた指が痙攣する。
 魔力の光に照らされた松陰の横顔が純白で埋め尽くされた。もう、どんな表情をしているのか誰も分からない。
 松陰を中心として、数多の星が爆ぜるように煌めき、光の息吹が輪となって山中に展開される。
『カルデアのシステムに割り込んでる⁉︎ ――ッ、駄目だ、止められない! 強制行使される! 藤丸君、レイシフトに備えろ!」



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